千葉県立 青葉の森公園近くの小さなヨガ教室

ギーターヨーガ

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【ギーター】第6章12番目の詩②

तत्रैकाग्रं मनः कृत्वा यतचित्तेन्द्रियक्रियः ।

tatraikāgraṃ manaḥ kṛtvā yatacittendriyakriyaḥ |

उपविश्यासने युञ्ज्यात् योगमात्मविशुद्धये ॥६.१२॥

upaviśyāsane yuñjyāt yogamātmaviśuddhaye ||6.12||

考え・感覚・行動器官を統括する人が、そこで考えを1つに集中する考えを作り

席に着き、心の浄化のために、瞑想を練習しますように

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瞑想中、平静さ[シャーンティ]が得られた時に、ふと湧き起こる記憶[カシャーヤ]が起こります。

一般的に、カシャーヤのような思考を自分自身としてしまいますが、瞑想中は、自分とその思考の間に距離を発見でき、それらに妨げられることもなければ、それを避けようとする必要もありません。

ただ観察する人[サークシー]でとどまり、その思考をあるがままに理解し、それらを恐れることはありません。

それらを湧き起こらせ、消えるのを眺める。

これが「考えをきれいにする為に瞑想の練習をしなさい」と、クリシュナが言う意味です。

過去に関するラーガ・ドヴェーシャ、こうあって欲しかった、こうすればよかった、こんなことが起こるべきではなかったなど、人を煩わせる全てのことを、祈りの瞑想が上手く処理します。

これもアートマ・ヴィシュッディと呼ばれます。

そして、納得のいかなかったこと、消化できていないもの、心傷ついた体験という、人の奥深くに、記憶として溜めこんでいる印象[サムスカーラ]と呼ばれる、様々なカシャーヤに巻き込まれていない自分を識別することも、アートマ・ヴィシュッディと呼ばれます。

自分自身を考えや体と同一視することは、自由[モークシャ]を求める人には障害[プラティバンダカ]であり、大きな混乱[ア・シュッディ]です。

アシュッディを除去するために、熟考が役立ちます。

熟考は、アートマ・ニャーナの為ではなく、アートマ・ヴィシュッディの為です。

自己の知識は、知識という考えの形[ヴルッティ・ニャーナ]で、知識の道具[プラマーナ]が働くことで起こりえます。

知識の道具を使った探求[プラマーナ・ヴィチャーラ]のみが、ヴルッティ・ニャーナを起こし、自分に関する無知を破壊します。

ヴルッティ・ニャーナが起こる為には、執着と嫌悪[ラーガ・ドヴェーシャ]ではなく、ダルマ・アダルマを基準に行いを選択します。

蓋をした記憶[カシャーヤ]に巻き込まれないよう、記憶が形を変えて現れたものを、大人の私がお世話します。

勘違い[ヴィパリータ・バーヴァナ]は、「私の見方においてそう見えているのだ」と正しく認識します。

これらの様々な妨げ[プラティバンダカ]を解消する為に瞑想[デャーナ]をするのです。

解消とは、それらが消えて無くなるという意味ではなく、それらを扱えるということです。

プラマーナ・ヴィチャーラのみが、知識を起こすというのは、瞑想や祈りを低く見ているのではありません。

探求者は、アートマ・ヴィシュッディの為に瞑想し、人生において重要な行いですから、クリシュナは「瞑想をしますように[ヨーガム ユンジャート]」と言います。

ヴェーダーンタは単に理論で、知識を生み出すのは瞑想の練習[デャーナ]だと、一般的に考えられていますが、そうではありません。

デャーナは、最終的にアートマ・ニャーナを助けるものであっても、アートマ・ニャーナのためではなく、アートマ・ヴィシュッディのためです。

知識は、完全に知識の為の準備ができた考え[アンタッカラナ・ヴィシュッディ]に頼っています。

知識を得るに相応しい考えを作るためにデャーナは重要です。

考えの準備のステップとして、瞑想が必要なのであり、瞑想自体が知識を生み出すのではありません。

プラマーナ・ヴィチャーラによってで生まれた、ヴルッティ・ニャーナのみが知識を起こします。