पशान्तात्मा विगतभीर्ब्रह्मचारिव्रते स्थितः ।
paśāntātmā vigatabhīrbrahmacārivrate sthitaḥ |
मनः संयम्य मच्चित्तो युक्त आसीत मत्परः ॥६.१४॥
manaḥ saṃyamya maccitto yukta āsīta matparaḥ ||6.14||
考えが静かで、恐れなく、ブランマチャーリーの生活に専心に確立したヨーギーが
考えを統括し究極のゴールである私を思い座りますように
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瞑想中、外見上の姿勢と、内側の姿勢もあり、その内側の姿勢が、「瞑想」という言葉によって表されるもので、マット・チッタハとマット・パラハという言葉によって表現されます。
クリシュナは、瞑想する人の本質、瞑想の対象について明らかにしています。
ギーターの中で、「瞑想とは何か?」についての詩は少ないのですが、「瞑想する人に関して」は多く語られています。
瞑想する人がどの様な人であるかが、瞑想が成功する要因です。
この詩のプラシャーンタ・アートマーと呼ばれる人は、考え[アンタッ・カラナ]が、ある程度平静な状態になった人です。
本当のシャーンティについては、後で述べられますが、シャーンティは、瞑想の結果と知識で得られるものです。
この詩の人は、探求者[ムムクシュ]ですから、シャーンティは相対的で、カルマ・ヨーガの生き方をすることで得られる平静さを意味します。
プラシャーンタ・アートマーとは、カルマ・ヨーガの生活をしてきた人で、ラーガとドヴェーシャを解決してきた人で、そこにプレッシャーはありません。
その様な人は、恐れから自由な人[ヴィガタ・ビー]です。
恐れは様々ですが、瞑想する人にとって、死への恐怖は最も共通する恐れと言われます。
瞑想中、体がリラックスすると眠ってしまい、恐れる人がいなくなるので、恐怖は無いのですが、体がリラックスしていても眠らない時、体から出て行くような感覚がまれにあり、それを正しく理解していないと、死の恐怖を感じる人がいます。
肉体的リラックスが、まるで、この体から自分が抜け出る様に感じるので、内側の防御システムが警告を出し、恐怖を経験します。
私達は、体はいずれ手放すことを知っていても、体を手放すことへの恐怖がありますが、ここでの話題は、行い手[カルター]の解消です。
主体、瞑想者が解消しますから、一種の自殺の様で、自分を消散させたくないので恐れるわけですが、実際は消えて無くなったりしません。
ただ無知が解決するのです。
アートマーは、アハンカーラではないのです。
熟考中、瞑想する人[アハンカーラ]は、自然にアートマーに解消しています。
そのような人は、恐れから自由な人[ヴィガタ・ビー]で、明日のことを不安に思わない人として捉えることもできます。
この詩で述べられているのは、サンニャーシーなので、明日への不安などありませんが、瞑想者は必ずしもサンニャーシーであるとは限らないので、ドロップアウトしてしまうかもしれないとか、生きる情熱がなくなることへの不安があるかもしれません。
「破壊」という言葉を用いると、この様な疑問が起こりますが、エゴの破壊を正しく理解します。
エゴは、実際に破壊されるものではなく、モークシャを得た人にさえ、エゴは残り、それは悟りを得たエゴです。
その「私」は、エゴから独立したものですが、エゴは「私」から独立したものではありません。
エゴは既に無効ですから、それは「私」の影(まとわりつく特徴)にすぎません。
それは「私」自身ではないので、問題は「私」の中にこそあります。
エゴが「私」としてみなされるならば、「私」はヨーヨーの様に上がったり、下がったりで、考えが私と思うのでサムサーラにさらされます。
この同一視から自由になることが、エゴの破壊です。
ヴィガタビーは、明日にも、他のどんなことにも不安はありません。
恐れから自由な人[ヴィガタビー]は、ブラフマチャーリーの誓いを立てた人[ブランマチャーリ・ヴラテー スティタハ]か、それに取り組んでいる人のことも指します。
ブラフマチャーリーの生活、取り組みとは、先生に仕えること[グル・シュシュルーシャー]、施しものは何でも喜んで食べること[ビクシャー・アンナ・ブクテャーディ]、とシャンカラは定義付けしました。
この様に取り組む人が、ブランマチャーリーで、シャーストラの勉強に重きを置き、シュラヴァナとマナナを、たくさんしてきた人が瞑想する人で、明日のことに悩まされません。