पशान्तात्मा विगतभीर्ब्रह्मचारिव्रते स्थितः ।
paśāntātmā vigatabhīrbrahmacārivrate sthitaḥ |
मनः संयम्य मच्चित्तो युक्त आसीत मत्परः ॥६.१४॥
manaḥ saṃyamya maccitto yukta āsīta matparaḥ ||6.14||
考えが静かで、恐れなく、ブランマチャーリーの生活に専心に確立したヨーギーが
考えを統括し究極のゴールである私を思い座りますように
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マット・チッタという複合語の「マット」は、全ての源、パラム・ブランマです。
サッテャ・ニャーナ・アナンタ・ブランマン、つまり私です。
私の本質、つまり、純粋な意識に瞑想する人をマット・チッタと呼びます。
私の本質を明らかにする言葉があり、その言葉を使い、意味を深く考え、熟考することを瞑想と呼びます。
瞑想する対象を描写した別の言葉が、マット・パラです。
天国に行くために瞑想をする人は、「天国・パラ」で「マット・パラ」ではありません。
100%精神的な成功の為、100%物質的な成功の為にと、様々な理由で瞑想をしますが、これはイーシュワラなどなく、瞑想を正しく理解していません。
瞑想はテクニックではなく、生き方です。
クリシュナが、瞑想する人をマット・パラと表現したのは、パラメーシュワラ、パラマートマー以外に得るべきものなど何もないということです。
達成すべきものは、パラマートマー、それがマット・パラです。
特定の誰かを思うのではなく、究極のゴールとして、神[イーシュワラ]に没頭します。
イーシュワラのスヴァルーパ、パラマートマーは、究極のゴール、パラとして、パラマ・パダと呼ばれます。これを唯一の追求として持つ人は、マット・パラと呼ばれるのです。
そして、「究極のゴール」は、「最終的に、それにたどり着くのであって、今は求める別のゴールがあります」という意味でも、定年退職後に得るべき目的でもありません。
究極のゴールとは、第一優先の目的で、他の全てのゴールは、この究極のゴールにの為に役に立つものとなるのです。
食べることでさえ、この目的を達成する為だけにしますし、サンスクリット語の学習も学者になるためではなく、目的を達成するためです。
ヴェーダーンタ・シャーストラを理解する手段として学ぶのです。
また、イーシュワラという源を防衛するとか、イーシュワラを伝え広めたいという、自称擁護者もいますが、イーシュワラはどんな助けも必要としません。
イーシュワラの定義は、いつも統治し、そうする事がで自然な在り方で、統治上手、防衛してもらいたいなどとイーシュワラは思ってません。
取り組むべきことは、ただイーシュワラとは何かを理解することです。
イーシュワラが、瞑想する人[デャーナ・ヨーギー]の唯一のゴール、デャーナ・ヨーギーの考えは、私の中に消えてしまいます。
その人が「マット・チッタ」と、クリシュナは神として述べます。
唯一イーシュワラが、達成されるべきゴールです。
マット・チッタとマット・パラという言葉は、知りたいこととは何か、その識別が出来ている人を示しています。