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ギーターヨーガ

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【ギーター】第6章15番目の詩①

युञ्जन्नेवं सदात्मानं योगी नियतमानसः ।

yuñjannevaṃ sadātmānaṃ yogī niyatamānasaḥ |

शान्तिं निर्वाणपरमां मत्संस्थामधिगच्छति ॥६.१५॥

śāntiṃ nirvāṇaparamāṃ matsaṃsthāmadhigacchati ||6.15||

いつも、この様に考えを結びつけ、考えをしっかり統括している瞑想者は

私の中に解消し、究極の自由、平安を得ます。

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この詩でクリシュナは、瞑想[デャーナ・ヨーガ]で得る、究極のゴールを述べます。

いつも[サダー]は、この追求の為に使える時間を無駄にしないということ、考え[アートマー]は、いつも繋がりのある考えのことです。

場所や、席を設えるなど、今までに述べられた方法で、考えはパラメーシュワラ、パラマートマー、アートマーのスヴァルーパであるブランマンに没頭します。

熟考し得る言葉、つまりアートマーのスヴァルーパを明かす言葉を使い、考えをアートマーのスヴァルーパに結び付けるので、言葉が重要です。

ユンジャンは「瞑想すること」「繋ぐこと」を意味し、考え[アンタッカラナ]を瞑想の対象に繋ぐ、これが瞑想です。

考えを統括した人[ニヤタ・マーナサ]は、考えが落ち着き、考えが集中している人と描写されます。

このニヤタ・マーナサ・ヨーギーは、 瞑想をし、何が説かれているのかを正しく理解します。

妨げなく、教えられたこと全てが明確なので、教えがリアルで、その人はシャーンティを得ます[シャーンティム アディガッチャティ]。

シャーンティは、ふつう平和、穏やかさを意味しますが、瞑想で得られるもの全てが、精神安定剤やドラッグなどで得られるものと同じであるという意味ではありません。

このシャーンティは、マット・サムスターと、ニルヴァーナ・パラマーです。

シャンカラの解説では、シャーンティを、ウパラティと定義しています。

ウパラティとは、解決すること、またはサルヴァ・カルマ・サンニャーサを意味します。

理解することで、行い手や体験者が手放されます。

ニルヴァーナとは、モークシャですから、このシャーンティはモークシャを意味するモークシャ・シャーンティです。

シャーンティには、3つの種類があります。

1つ目のシャーンティは、思考が無いこと、考えと考えの間に起こるもの、考えの周波数が鎮まった状態ですが、これは一時的な考えからの解放で、様々な条件が必要です。

2つ目のシャーンティは、活発に働く考えを上手く扱い、シャーンティを楽しんでいる時です。

どんな状況でも、自分と考えの間に、ある距離が保てている時のシャーンティですから、ある程度の落ち着きを持ち、状況を上手くやりくりできます。

そして3つ目のシャーンティが、モークシャです。

ここでは、考えが恩恵を与えます。

考えがどうであれ、それは私ですが、私は考えでは無いことを知ります。

この知識が、完全な自由です。

考えをコントロールしたり、追い払うこともなく、考えがどこに行こうと、この知識は常にあります。

考えがどこにあろうと、神がそこにいますから、真の帰依者です。

favicon知識に基づく帰依を理解するための、シヴァ神のバクタの話

ある帰依者が、リンガの上に足を乗せて寝ているサードゥを見つけ、その帰依者は怒り「起きろ!リンガの上に、よくも足を乗せることができたものだ!」とサードゥを怒鳴りつけました。

サードゥは「私は年寄りで、足を動かす力もありませんから、足をあなたが思うように動かしてください。」と答えました。

帰依者は、サードゥの足を持ち上げリンガから離しましたが、驚いたことに、サードゥの足の下に、また別のリンガが現れたのです。

困惑しながらも、彼は再びサードゥの足を動かしましたが、どこに動かしても、その場所にリンガが現れます。

こうして、彼は、神が存在しない場所など何処にもないと理解したのです。

同様に、考えが神から出るとか、入るとかは無く、考えがどこに行こうと、神の存在の中にとどまります。

「まるで考えが去ってしまいました。ですから、私はまるで瞑想しています[ध्यायती इव लेलायति इव  ]」と、ブルハダーラニャコーパニシャドの中の探求者は言います。

「まるで」去ってしまった考えには、「まるで」瞑想で十分ですし、「まるで」が、あなたに明らかになるなら、考えは去りませんが、どんな瞑想も必要ではありません。

「まるで」を理解した時の、ありとあらゆる不安や不満足を飲み込んでしまう自分自身、絶対的なシャーンティ。

自分の足を含め、どこに足を置こうとそこにシヴァがいます。

シヴァの上に足を置かないことなど出来ず、全てに行き渡るの神の真実を知るのです。

「まるで」神を見ていました。

「まるで」神ではないものがあるように見えていました。

この「まるで」が明らかになります。

その帰依者には、全体宇宙がシヴァで、シヴァを思う為のシヴァリンガが、役割を終えます。

「私とシヴァは離れた別のものではない」と、私がシヴァの中に解消します。

変わることのないシャーンティ。

同じ様に、この瞑想者は「まるで」瞑想していました。

「まるで」神が思えていない時があるかのようでした。

「今、神だけがある」

瞑想は役割を終え、私は神の中に解消します。

変わることのない喜びと平安、自分自身のシャーンティがあります。

これがニルヴァーナ・パラマー・シャーンティと呼ばれるシャーンティ、つまりモークシャです。