
युञ्जन्नेवं सदात्मानं योगी नियतमानसः ।
yuñjannevaṃ sadātmānaṃ yogī niyatamānasaḥ |
शान्तिं निर्वाणपरमां मत्संस्थामधिगच्छति ॥६.१५॥
śāntiṃ nirvāṇaparamāṃ matsaṃsthāmadhigacchati ||6.15||
いつも、このように考えを結び付けていながら、考えをしっかり統括している瞑想者は (ヨーギーは)、私の中に解消して、究極の自由、平安を得ます。
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この詩は、瞑想における時間の使い方、方法、そして最終的なゴールについて説明しています。
「いつも[sadā]」という言葉は、日常生活を捨て去ることではなく、「追求のために使える時間を一分も無駄にしない」という瞑想者の真摯な姿勢を指しています。
適切な場所と席を整えた上で、考え[ātmā]を「言葉[śabda]」を用いて真実の自己に結びつけ、没頭させます。
言葉によって自己の本質を明らかにすることが、瞑想という行為の本質です。
自制心を持ち、考えが集中した人[niyatamānasa]は、教えを正しく明確に理解できるようになります。その結果、教えが現実のものとなり、究極の静寂[śānti]に到達します。
◎シャーンティの意味
ニルヴァーナとは、モークシャですから、このシャーンティはモークシャを意味するモークシャ・シャーンティです。
シャーンティには、3つの種類があります。
1つ目のシャーンティは、思考が無いこと、考えと考えの間に起こるもの、考えの周波数が鎮まった状態ですが、これは一時的な考えからの解放で、様々な条件が必要です。
2つ目のシャーンティは、活発に働く考えを上手く扱い、シャーンティを楽しんでいる時です。
どんな状況でも、自分と考えの間に、ある距離が保てている時のシャーンティですから、ある程度の落ち着きを持ち、状況を上手くやりくりできます。
そして3つ目のシャーンティが、モークシャです。
ここでは、考えが恩恵を与えます。
考えがどうであれ、それは私ですが、私は考えでは無いことを知ります。
この知識が、完全な自由です。
考えをコントロールしたり、追い払うこともなく、考えがどこに行こうと、この知識は常にあります。
考えがどこにあろうと、神がそこにいますから、真の帰依者です。
◎知識に基づいた帰依
ある熱心な帰依者が、「聖なるシヴァ神の象徴[liṅga]」の上に足を乗せて寝ているサードゥを見つけ、激しく怒りました。
老人は「動く力がないので、あなたが好きな場所に私の足を動かしてください」と頼みます。
帰依者が足をどけると、驚いたことに移動させた先の地面にまた別のリンガが現れました。
何度動かしても、足が置かれる場所には必ずリンガが現れます。
これを見た帰依者は、「神が存在しない場所などどこにもない」という真実を悟ったのです。
この物語は、シャーンティをより分かりやすく説明しています。
老人の足がどこに置かれても神の上であったように、私たちの「考え」がどこへ飛んでいこうと、それは常にイーシュワラの領域の中にあります。
瞑想中に考えが消えたように感じるのは「まるで」そう見えるだけであり、実際には考えが消える必要はありません。
「考えがどこにあっても自分は自由である」という知識があれば、特別な瞑想すら不要になります。
このシャーンティは、外側の状況によって現れたり消えたりするものではありません。
それは自分自身の本質であり、何と比較することもできない、絶対的な自由そのものです。
◎シャーンティは、自分自身である
シャーンティはパラマートマーと同一であり、常に不動[kūṭastha]です。
真のシャーンティは、世界とも、知識とも、さらには無知とすらも対立しません。
摩擦や抵抗がないからこそ、ア・シャーンティはあり得ません。
リラックスしているかどうかに依存する静寂は、状況によって壊されますが、このシャーンティは考えの状態に依存しないため、真の自由と呼ばれます。
ここで重要な論点は、シャーンティがアートマーの「飾り」ではないという点です。
例えば、青いポットの「青い」という属性[viśeṣaṇa]は、他の色のポットと区別するために使われます。
しかし、アートマーにおいてシャーンティは、外から付け加えられた「性質[viśeṣaṇa]」ではなく、アートマーという存在そのものを表す言葉[lakṣaṇa]です。
属性は目に見えたり感じたりできますが、アートマーの本質としてのシャーンティは知覚の対象ではなく、「私」という存在そのものの本質です。
クリシュナが説く「マット・サムスター[mat saṃsthā]」とは、瞑想によって作り出す心の平穏ではなく、「何とも対立せず、すべてを支えている不変の自己」に目覚めることを意味しています。
◎上乗せした価値観とその否定
ここでの「シャーンティ」とは、意識[caitanya]であるアートマーそのものの本質であって、一時的な考えの状態とは一線を画すものです。
意識としての自分自身は、いかなる考えの状態からも独立しており、それらすべてを支える基盤となっています。
そのため、「アートマーはシャーンティである」という言葉は、私の本質が、その上に一時的に乗っている「動揺」などの考えから完全に自由であることを明らかにしています。
このような静寂は、何かの条件によって得られるものではなく、自分自身の本質そのものなので「スヴァルーパ・シャーンティ」です。
考えの形[vṛtti]はアートマーなしには存在できませんが、アートマーはどのような考えにも縛られることはありません。
もし「私は静寂そのものである[ahaṃ śāntaḥ]」という理解があれば、たとえ考えに動揺が起きても、本質的な静寂が損なわれることはありません。
ですから、ここでのヨーギーとは、アシュターンガ・ヨーガという8つの側面を持つヨーガの観点からではなく、自分をパラマートマーとして理解し、その不変の静寂を知識として得た人です。
この「知識」という形での認識[vṛtti-jñāna]こそが、考えの状態に依存しない究極の自由[nirvāṇa]なのです。
