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ギーターヨーガ

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【ギーター】第6章15番目の詩


युञ्जन्नेवं सदात्मानं योगी नियतमानसः ।
yuñjannevaṃ sadātmānaṃ yogī niyatamānasaḥ |

शान्तिं निर्वाणपरमां मत्संस्थामधिगच्छति ॥६.१५॥

śāntiṃ nirvāṇaparamāṃ matsaṃsthāmadhigacchati ||6.15||

いつも、このように考えを結び付けていながら、考えをしっかり統括している瞑想者は (ヨーギーは)、私の中に解消して、究極の自由、平安を得ます。

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この詩は、瞑想における時間の使い方、方法、そして最終的なゴールについて説明しています。

「いつも[sadā]」という言葉は、日常生活を捨て去ることではなく、「追求のために使える時間を一分も無駄にしない」という瞑想者の真摯な姿勢を指しています。

適切な場所と席を整えた上で、考え[ātmā]を「言葉[śabda]」を用いて真実の自己に結びつけ、没頭させます。

言葉によって自己の本質を明らかにすることが、瞑想という行為の本質です。

自制心を持ち、考えが集中した人[niyatamānasa]は、教えを正しく明確に理解できるようになります。その結果、教えが現実のものとなり、究極の静寂[śānti]に到達します。

◎シャーンティの意味

ニルヴァーナとは、モークシャですから、このシャーンティはモークシャを意味するモークシャ・シャーンティです。

シャーンティには、3つの種類があります。

1つ目のシャーンティは、思考が無いこと、考えと考えの間に起こるもの、考えの周波数が鎮まった状態ですが、これは一時的な考えからの解放で、様々な条件が必要です。

2つ目のシャーンティは、活発に働く考えを上手く扱い、シャーンティを楽しんでいる時です。

どんな状況でも、自分と考えの間に、ある距離が保てている時のシャーンティですから、ある程度の落ち着きを持ち、状況を上手くやりくりできます。

そして3つ目のシャーンティが、モークシャです。

ここでは、考えが恩恵を与えます。

考えがどうであれ、それは私ですが、私は考えでは無いことを知ります。

この知識が、完全な自由です。

考えをコントロールしたり、追い払うこともなく、考えがどこに行こうと、この知識は常にあります。

考えがどこにあろうと、神がそこにいますから、真の帰依者です。

◎知識に基づいた帰依

ある熱心な帰依者が、「聖なるシヴァ神の象徴[liṅga]」の上に足を乗せて寝ているサードゥを見つけ、激しく怒りました。

老人は「動く力がないので、あなたが好きな場所に私の足を動かしてください」と頼みます。

帰依者が足をどけると、驚いたことに移動させた先の地面にまた別のリンガが現れました。

何度動かしても、足が置かれる場所には必ずリンガが現れます。

これを見た帰依者は、「神が存在しない場所などどこにもない」という真実を悟ったのです。

この物語は、シャーンティをより分かりやすく説明しています。

老人の足がどこに置かれても神の上であったように、私たちの「考え」がどこへ飛んでいこうと、それは常にイーシュワラの領域の中にあります。

瞑想中に考えが消えたように感じるのは「まるで」そう見えるだけであり、実際には考えが消える必要はありません。

「考えがどこにあっても自分は自由である」という知識があれば、特別な瞑想すら不要になります。

このシャーンティは、外側の状況によって現れたり消えたりするものではありません。

それは自分自身の本質であり、何と比較することもできない、絶対的な自由そのものです。

◎シャーンティは、自分自身である

シャーンティはパラマートマーと同一であり、常に不動[kūṭastha]です。

真のシャーンティは、世界とも、知識とも、さらには無知とすらも対立しません。

摩擦や抵抗がないからこそ、ア・シャーンティはあり得ません。

リラックスしているかどうかに依存する静寂は、状況によって壊されますが、このシャーンティは考えの状態に依存しないため、真の自由と呼ばれます。

ここで重要な論点は、シャーンティがアートマーの「飾り」ではないという点です。

例えば、青いポットの「青い」という属性[viśeṣaṇa]は、他の色のポットと区別するために使われます。

しかし、アートマーにおいてシャーンティは、外から付け加えられた「性質[viśeṣaṇa]」ではなく、アートマーという存在そのものを表す言葉[lakṣaṇa]です。

属性は目に見えたり感じたりできますが、アートマーの本質としてのシャーンティは知覚の対象ではなく、「私」という存在そのものの本質です。

クリシュナが説く「マット・サムスター[mat saṃsthā]」とは、瞑想によって作り出す心の平穏ではなく、「何とも対立せず、すべてを支えている不変の自己」に目覚めることを意味しています。

◎上乗せした価値観とその否定

ここでの「シャーンティ」とは、意識[caitanya]であるアートマーそのものの本質であって、一時的な考えの状態とは一線を画すものです。

意識としての自分自身は、いかなる考えの状態からも独立しており、それらすべてを支える基盤となっています。

そのため、「アートマーはシャーンティである」という言葉は、私の本質が、その上に一時的に乗っている「動揺」などの考えから完全に自由であることを明らかにしています。

このような静寂は、何かの条件によって得られるものではなく、自分自身の本質そのものなので「スヴァルーパ・シャーンティ」です。

考えの形[vṛtti]はアートマーなしには存在できませんが、アートマーはどのような考えにも縛られることはありません。

もし「私は静寂そのものである[ahaṃ śāntaḥ]」という理解があれば、たとえ考えに動揺が起きても、本質的な静寂が損なわれることはありません。

ですから、ここでのヨーギーとは、アシュターンガ・ヨーガという8つの側面を持つヨーガの観点からではなく、自分をパラマートマーとして理解し、その不変の静寂を知識として得た人です。

この「知識」という形での認識[vṛtti-jñāna]こそが、考えの状態に依存しない究極の自由[nirvāṇa]なのです。