千葉県立 青葉の森公園近くの小さなヨガ教室

ギーターヨーガ

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【ギーター】第6章19番目の詩

यथा दीपो निवातस्थो नेङ्गते सोपमा स्मृता ।

yathā dīpo nivātastho neṅgate sopamā smṛtā |

योगिनो यतचित्तस्य युञ्जतो योगमात्मनः ॥६.१९॥

yogino yatacittasya yuñjato yogamātmanaḥ ||6.19||

ちょうど、風から守られたランプは、揺るぎません。

自己の熟考をする瞑想実践者の落ち着いた考えの為に、この様な例えが教えられます。

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例え話は、例えられた対象の知識そのものではなく、少し近い理解をもたらします。

「水牛は、水牛の様なもの」は、例え話にはならず、「水牛は、大きな牛の様なもの」と言うなら、水牛は、大きくて、ウシ科の動物に属しているという様な理解を与えますから、この表現が例え話[ウパマー]です。

同様に、この詩で、アートマーに熟考する人、賢者の考えを、風から守られた炎に例えます。

この考えは、揺れ動かず、これは、炎の様に、絶え間ない光の流れの様だという意味です。

炎が上がるスピードをスローモーションで見るなら、炎は常に動いているのが分かります。

常に動きがある中で、炎は、全く揺れてはいない様に、賢者[ヨーギー]の整った考えには、考えの流れ[ヴルッティ]が絶え間なくあっても、不安や、動揺、どんな状況でも、揺れ動かないということです。

その様な例え話[ウパマー]は、ヨーギーの考えを知る人だけが、引用できます。

教える人と、教えられる人両方が、知るものを例えとして、引用しなければならず、例えは、伝えられるものに似ているものでなければなりません。

ここで、賢者の考えを知る人が、例えを引用した理由は、聞いている人が、今の時点では、賢者の考えを思い描くことが出来ないからです。

「ああ、株価が下がってしまった」と言う父の言葉を、どの様に子供が聞くでしょうか。

子供は、お父さんやお母さんが悲しんでいることは分かっても、大人が何故泣いているのか理解できません。

玩具が欲しい子供と、大人では、考えが異なりますから、子供が大人になり、ようやく理解できます。

大人になっても、子供の考えのままで、子供の考えが、大人の考えを抑えつけるなら、子供が大人になるまで、考えは、子供の問題しかありません。

25歳の人が、まだ風船や、人形、おはじきを欲しがるなら、本人は問題無くとも、周りの人はそうは思いません。

あらゆる安全を求め、注目を集めたいと駄々をこねる子供が内側にいる時に、問題が起こります。

その様な人は、どんな時でも大人と上手く接することが出来ないのです。

大人とは、成熟した考えの人で、考えが問題になったりしませんし、その人にとって、考えは単に道具にすぎません。

ここでは、その様な考えを思い描けない人の為に、その成熟した考えが、ランプの炎に例えられています。

見ることや、思い描くことが出来るものは、例え話は必要ではありませんし、実物があるなら「これが水晶です」という様に、その人に見せることもできます。

直接見せるなら、水晶は、ガラスの様なものですと言う必要はありませんから、例え話は要りません。

一方、バッファローは知っていて、バイソンを知らないなら、「バイソンは、バッファローの様だ」と言うことが出来ます。

この2つは、類似点がある、バイソンのことを、より理解しやすくなります。

同様に、賢者はどの様な考えなのか、という理解を助ける為、賢者の考えを知る人が、ランプの炎を引用することで、例え話になります。

「ヨーガム ユンジャタハ」は、パタンジャリのアシュターンガ・ヨーガに従う人、アートマーに熟考する人、とも解釈出来ます。

ヨーガは練習で、考えをアートマーに結び付けようと試みる[ユンジャタハ ヨーガム アートマナハ]ことを意味します。

考えとアートマーを結び付けながら、熟考[ヨーガ]をする人がユンジャトと、シャンカラは定義しました。

クリシュナは、この後の4つの詩で、これを更に議論します。