
तं विद्याद् दुःखसंयोगवियोगं योगसंज्ञितम् ।
taṃ vidyād duḥkhasaṃyogaviyogaṃ yogasaṃjñitam |
स निश्चयेन योक्तव्यो योगोऽनिर्विण्णचेतसा ॥६.२३॥
sa niścayena yoktavyo yogo’nirviṇṇacetasā ||6.23||
ヨーガと呼ばれるものを、悲しみとの関わりから離れることと知りますように。落胆しない考えを持ち、目的をはっきりと見据え、そのヨーガが追求されるべきです
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◎ヨーガのもうひとつの定義
ヨーガという言葉の語源[yuj]は、「統合[yojana]」と「制御[nirodha]」という2つの意味があります。
1つ目の「統合[yojana]」は、異なる2つのものを結びつけることを指します。
ヴェーダーンタの文脈では、個人の「考え」が熟考の対象である「アートマー」と一体になるプロセスを、結婚のように二者が「結びつく[sambandha]」と捉える一般的な見方です。
2つ目は、パタンジャリの『ヨーガ・スートラ』でも定義されている「制御[nirodha]」です。
これは、考えの動きや変化を統括し、静めるための「鍛錬」としての側面を強調しています。
『ギーター』において、これら「統合[yojana]」と「制御[nirodha]」のどちらの意味で使われているかを文脈から見極める必要です。
ここでは「考え」がアートマーという真実に集約されるプロセスが、伝統的なヨーガの概念を用いて示唆されています。
◎結びついているものは、離れる
通常、2つのものが結びつく「結合」には、必ず「分離」の可能性が伴います。
瞑想において「考え」を「アートマー」に結びつけようとしても、感覚や記憶が絶えず外側の世界を思い起こさせるため、その結合は常に不安定で、離れてしまう危険を孕んでいます。
そこでクリシュナは、この不安定さを打破するために「逆説[viparīta-darśana]」という手法を持ち入ります。
これは、従来の「何かと何かが結びつく」という限定的なヨーガの意味をあえて壊し、アートマーの絶対的な本質を明かすための新しい意味を与えるプロセスです。
つまり、努力して繋ぎ止めるような不自然な状態ではなく、決して離れることのない自己の真実を指し示すために、あえて言葉の枠組みを再構築しました。
◎ヨーガ:結合から解消へ
クリシュナはここで、「結びつく」という意味のヨーガをあえて「離れる」という正反対の意味で再定義し、言葉の概念を根底から覆しました。
通常、ヨーガといえば「固い結合[saṃyoga]」を指しますが、クリシュナはこれを「悲しみとの強固な結びつきから離れること[duḥkha-saṃyoga-viyoga]」と定義し直しています。
誰も悲しみを望んだりしませんが、実際にはそこから逃れられないほど深く結びついてしまっています。
この強固で不本意な結びつきこそが「悲しみのサムヨーガ」であり、そこから完全に決別することこそが、真に知るべき「ヨーガ」です。
これまでの修行や生活のあり方に関するすべては、この「悲しみからの分離」を実現するためのものでした。
つまり、何か新しいものと結びつく努力ではなく、今ある悲しみとの固着を断ち切ることこそが、クリシュナの提示するヨーガです。
◎どうして悲しみは、そんなにもしっかりと根付いているのか?
人が苦しみから抜け出せない理由は、抜け出そうとしている主体そのものが「自分はちっぽけで限られた存在[duḥkhī]」であるという誤った自己認識に縛られているからです。
多くの人は、自分が肉体や考え、社会的な属性に縛られた存在であると思い込み、その「限定された私」という自己イメージこそが悲しみの正体です。
楽しいことに没頭して自分を忘れている間は幸せですが、「我に返る」なら、自ら作り出した限定的な「私」を思い出すことで再び悲しみに戻ります。
このように、本来は質のない純粋な意識であるはずの「アートマー」が、それ以外の対象と分かちがたく結びついていると誤認している状態が「サムヨーガ」です。
どこへ逃げても自分自身からは逃げられないため、この自己認識の誤りを正さない限り、人はどこへ行っても悲しみを作り出します。
◎無知が、不可能を可能にする
意識そのものには本来、何事とも結びつく[saṃyoga]性質はありません。
しかし、無知が不可能なことを可能に見せ、アートマーとアナートマーを混同させてしまいます。
これは、暗闇でロープを蛇と見間違えるような、見極める力の欠如[a-vivkeka]による錯覚です。
この結びつきが「無知」という誤解から生まれている以上、場所を変えるといった物理的な手段で悲しみから離れることは不可能です。
唯一の解決策は、クリシュナが「ドゥッカ・サムヨーガ・ヴィヨーガ」と呼んだ、知識による分離です。
これは、自分自身を正しく理解し、アートマーとアナートマーの混同を解消することを意味します。
もし自分自身と世界が別々の実体として存在していると考えるなら、探求は終わることなく問題は膨らみ続けます。
しかし、アートマーの真実を理解すれば、自分と切り離された別の存在などどこにもありません。
◎アートマーしかない
本来、アナートマーは、ひとときもアートマーから離れて存在することはありません。
しかし、考えや感情を「私」そのものだと見なすことで、苦しみとの強固な結びつき[duḥkha-saṃyoga]が生まれます。
ここでのヨーガは、何かと結びつく努力ではなく、この無知ゆえの誤った同一視から「離れる[viyoga]」ことです。
これは物理的に何かを切り離す作業ではありません。
土からできたポットの正体が「土」であると知ったとき、ポットという形が土を縛っていたわけではないと理解するようなものです。
知識によって「自分を縛るものなど最初からなかった」と認識することが、まさに知識による解消です。
経験上の幸せは状況次第で消えてしまいますが、この知識による解消は、状況に左右されることのない永遠の自由です。
◎拘束している要因は無知
法的な結びつきには、法的な手続きが必要です。
物理的な結合には、物理的な分離が必要です。
同様に、アートマーとアナートマーを不当に結びつけている原因が「無知[a-vidyā]」であれば、その解消は「知識」によってのみ[jñānena viyaugaḥ]成し遂げられます。
このヨーガは、何かを新しく得るのではなく、自分を縛っていた誤った観念を「手放す」プロセスです。
重いものを持ち上げるより、持っているものを落とす方が本来は簡単であるはずです。
しかし、ここで落とすべき対象は「間違った自己イメージ」であるため、一筋縄ではいきません。
これは単に「神への明け渡し」というエモーショナルな態度ではありません。
あくまでも自分自身の真実を正しく見極めるという知的な解決が求められています。
◎間違った観念は、明け渡されない
「すべてを神に委ねる」と言っても、本来すべてが神である以上、何かを物理的に差し出すことはできません。
特に「自分自身(エゴ)を明け渡す」という行いは、明け渡そうとする主体もまたエゴであるため、別の「私」が必要になるという矛盾が生じます。
つまり、真の明け渡しとは、エゴという誤った観念を知識によって見抜くことに他なりません。
このエゴの解消こそが、クリシュナの言う「ヨーガ」の本質です。
自分自身に関する長年の間違いを解くことは、準備できていない考えには困難です。
しかし、準備が整った知性にとっては、「1+1=2」を理解するように容易なものです。
ですから、表面的な体裁としての明け渡しではなく、正しい見極めによって無知を破壊する考えを整えることのが重要す。
◎知的に生きることで整う考え
考えが穏やかで朗らかであることが、真実を理解するために必要です。
日々の生活におけるドゥッカを解消する手段としてヴェーダーンタにすがるなら、その教えもまた新たな苦痛や重荷になりかねません。
ヴェーダーンタは単なる「気休め」ではなく、自分自身が全体であるという事実を知的な喜びとともに理解する人のためのものだからです。
そのため、直接的な自己知識の門を叩く前に、まずはカルマ・ヨーガやアシュターンガ・ヨーガなどの鍛錬を通じて、外的な状況に左右されない「朗らかな心」を養うことが不可欠であると結論づけられています。
◎自分自身の知識こそが、問題解決の唯一の追求
アディカーリーの条件として挙げられる「4つの資質[sādhana-catuṣṭaya]」を、一点の曇りもなく完璧にマスターしている人は、現実にはまず存在しません。
大切なのは「祈り深い生活(カルマ・ヨーガ)」を通じて考えを整えることです。
自分自身の知識を得ることは、自分に関する誤った観念を「落とす」だけなので本来は容易ですが、準備ができていない考えにとっては難しく感じられます。
しかし、自分自身の問題を解決するこれ以上に価値のある追求はありません。
落胆しない、いらいらしない、飽きのない[anirviṇṇa]考えで[cetasā]、明確な識別力[viveka]を持ち、何が真実で、何が真実でないのかを理解することで[niścayena]この知識を探究します。
実際、根本的な矛盾に陥ったまま一生を終えるのが人間の普通の在り方[saṃsāra]です。
しかし、人はその悲しみによる自己認識からの解放を求めています[duḥkha-saṃyoga-viyoga]。
バガヴァーンは、ヴィヨーガの意味で、「ヨーガ」という言葉をこの詩で使いました。
