千葉県立 青葉の森公園近くの小さなヨガ教室

ギーターヨーガ

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【ギーター】第6章22番目の詩

यं लब्ध्वा चापरं लाभं मन्यते नाधिकं ततः ।

yaṃ labdhvā cāparaṃ lābhaṃ manyate nādhikaṃ tataḥ |

यस्मिन् स्थितो न दुःखेन गुरुणापि विचाल्यते ॥६.२२॥

yasmin sthito na duḥkhena guruṇāpi vicālyate ||6.22||

そして、それを得ると、それ以上の素晴らしい得るものなど考えつきません

それを達成すると、大きな悲しみにさえ影響されたりしません

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波が、水から出れたりしない様に、アートマーは、出入りできる場所ではないので、自分自身の真実[アートマ・タットヴァ]から離れたりしません。

アートマーに留まるとは、自分自身の知識に関してです。

留まるとは、記憶にさえも頼っていないので、それから離れることはないのです。

アートマーを知る為に使う言葉を忘れることはあっても、その意味を理解したなら、忘れることも出来ません。

サット・チット・アーナンダという言葉は、アートマーの本質を明かすためのもの[ラクシャナ]に過ぎず、それらを忘れたとて、その意味は私ですから、私を忘れることなどできません。

自分自身を知ることは、記憶に基づく様なものではないのです。

知識を既に得た人[ニャーニー]が、事故で頭をひどく打ち、自分の名前も思い出せず、全脳細胞の機能を失っても、彼の知識はなくなったりしません。

なぜなら「彼の」知識などなく、「彼が」知識だからです。

「この自分自身がブランマン[アヤム アートマー ブランマ]」という事実を理解しますから、彼は既に自由です。

そこにはただモークシャがあり、生きながらにして自由です[ジーヴァンムクティ]。

モークシャは、記憶ではなく理解です。

モークシャを求めるムムクシュは、ある分野に疎いという劣等感や、全てをやり尽くしたいからという理由で、この探究に辿り着くのでもありません。

この詩の「得る」という言葉は、全ての分野において、博学多才でありたい人を視野に入れて使われています。

「得ること[ラブドゥヴァー]」とは、「知ること[ニャートヴァー]」です。

ニャーナ自体が喜び[スカ]ですから、ここでは得るものです。

この得るものは、人間のゴール[プルシャ・アルタ]です。

アートマーを得て、その人は、それより良いもの[タタハ アディカハ]、それ以外[アパラ]あるとは考えず[ナ マンニャテー]、それ以上の得るもの[ラーバ]はありません。

「得る」とは、以前よりも良い状態であると感じるものですから、土地を買ったけど、税金が払えないというようなものではありません。

自分自身を得るなら、それ自体がアーテャンティカ・スカです。

私だけが満ちていています[プールナ]。

自分自身は、他の何にも頼ってはいないのですから、得るものでそれ以上に素晴らしいものなどありません。

より良くすることも出来ませんから、この詩で議論されている人は、他に得るものなど思いつかず、何か他のものを探そうとはしません。

他の何かも、すなわち全てがアートマーですから、他の何かというのもありません。

その人は、アートマーの知識にとどまり[ヤスミン スティタハ]

大きな悲劇によってさえ[ドゥッケーナ グルナー アピ]

影響されたりしません[ナ ヴィチャーリャテー]。

この詩でグルという言葉は、「大きい」「重たい」という意味で、「簡単な、単純な、軽い[ラグ]」と反対の意味で使われます。

大きな悲劇が起きても、アートマーから出て、どこかに行くことも出来ません。

なぜなら、その別の場所もアートマーですから、アートマーに留まります。

決して立ち去ったりしません[タットヴァタハ ナ エーヴァ チャラティ]。

ここで述べられるヨーガは「繋がる」よりむしろ「離れる」というヨーガ[ヴィヨーガ]です。

20番の詩のヨーガは、熟考を練習することと言われ、その熟考の対象物アートマーを知り、その人は、自分自身の中に喜びます。

アートマーは、知識の助けを得た考えによって知られるので、このヨーガはニャーナ・ヨーガです。

アートマーの本質は、絶対的な幸福、それは、知性によって認識され、感覚を超えたもの(6-21)であることを知り、人は自分自身に留まり、決して自分自身の真実から離れません(6-22)と述べられました。

自分自身の真実は、絶対的な幸せ[アーナンダ]、他の全ての幸せ、一般的な楽しみ[ボーガ]は、外側の状況と、自分の精神状態に頼っています。

いつも聞いている音楽でさえも、好みは変化します。

一方スヴァルーパ・スカは、あらゆる限られた感覚からも自由であるという、自身の認識から生まれます。

それ以上に得られる、良いものなど無いので、スヴァルーパ・スカを理解する人は、そこから出ることはないとクリシュナは、指摘しました。

自己の知識という意味で、この得ることもヨーガと呼ばれます。

このヨーガを達成するまでのプロセスも喜びで、達成したとて、情熱が無くなる様なものではありません。

人が、更なる挑戦や、大きな目的を求める続けるのは、ベースに自己証明したいという願望があるからです。

自己証明したいという、この気持ちが人を前進させ、一般的には、それが成功の意味と言われますが、自分以外の物を付け足したとて満たされない、という結論に辿り着いた人に起こる探究があります。

自分自身を理解によって受け入れる、自己の混乱の解消です。

この解消で、探求者と、その対象が同じ1つのものになります。

22番の詩で「そのアートマーを得て、人は、それ以上に優れた得るものがあるとは思いません。[ヤム ラッブドヴァー チャ アパラム ラーバム マンニャテー ナ アディカム タタハ]。」更に、「どんな大きな悲しみが起こっても、その人は、しっかり、アートマーに落ち着き、影響されません[ヤスミン スティタハ ドゥッケーナ グルナー アピ ナ ヴィチャーリャテー]」と言われました。

世界も、他のどんなものも、満ち足りたものを邪魔することは出来ず、人生の中で起こるあらゆる出来事を、満ち足りたものが受け入れています。

また、その満ち足りたものは、その人自身なので、そこから抜け出せる様なものでもありません。