千葉県立 青葉の森公園近くの小さなヨガ教室

ギーターヨーガ

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【ギーター】第6章24番目の詩

सङ्कल्पप्रभवान्कामांस्त्यक्त्वा सर्वानशेषतः ।

saṅkalpaprabhavānkāmāṃstyaktvā sarvānaśeṣataḥ |

मनसैवेन्द्रियग्रामं विनियम्य समन्ततः ॥६.२४॥

manasaivendriyagrāmaṃ viniyamya samantataḥ ||6.24||

考え[サンカルパ]から生まれる、全ての欲望を完全に手放して

感覚器官、行動器官の集合体を考えだけで完全に引き下げて


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23番の詩では、体・考え・感覚の複合体[カーリヤ・カラナ・サンガータ]と自分を同一視している関係を絶つこと[ドゥッカ・サムヨーガ]を見てきました。

知識で起こる、この識別がヨーガと呼ばれます[ヨーガ・サムジニタム]。

統合より、むしろ分離であるこのヨーガは、絶望や、落胆の思いに悩まされていない考え[アニルヴィンナ・チェータサー]で追求されます。

山に登るようなものではなく、むしろ、手に抱えている石を落とすようなもの、これっぽっちだと思っている自分自身から、自分を識別するのみですから、絶望や落胆はありません。

根深くあるこの勘違いについて、クリシュナは何度も議論します。

◎あらゆる願望の基盤

サンカルパから生まれる[サンカルパ・プラバヴァーン]、全ての欲望から完全に身を引く[サルヴァーン カーマーン アシェーシャタハ テャクトヴァ―]とクリシュナは言います。

カーマは欲望、または欲望の対象物で、この詩では、欲望そのもののことです。

欲望の原因となるのが、サンカルパで、この詩におけるサンカルパは、何に価値を持っているかの考えのことを指します。

サンカルパは現れては去るものですが、欲望になると、何度も思い出し、その度に満たされようと活動が生まれます。

この詩で言われている「完全に手放されます」とは、欲望ではなく、欲望の源であるサンカルパです。

価値構造の混乱した、勘違いのサンカルパです。

イーシュワラに生かされていることを知るのであれば、勘違いのサンカルパは手放され、ヨーギーのサンカルパへと育ってゆきます。

◎祈りにおけるサンカルパ

祈りにおいてサンカルパとは、思考能力を使う行為[マーナサ・カルマ]です。

人間が自由意志を使った行為は、3種類に分類されます。

1.思考能力を使う行為[マーナサ・カルマ]

2.言葉を使う行為[ヴァーチカ・カルマ]

3.手足などの身体を使う行為[カーイカ・カルマ]

最初に、思考能力を使い、思考が言葉や身体を通して現れますから、自由意志を使い意識的に「思考を使う」=サンカルパをすることは、人間としてとても大事なのです。

言葉や行動を意味のあるものにするのが、サンカルパです。

成熟した人は、何かしらの行動を起こす前に、「今から私は、~を達成させる為に、~します」と決心し、自分に宣言し、この「サンカルパ」という行為を、意識的に行います。

反対に、サンカルパしないなら、人間の特権である自由意志を使わず、考えにただ反応し、機械的に発言・行動しているということになります。

自由意志を与えられた人間は、世の中で生き延びる為、選択の余地が与えられないラーガ・ドヴェーシャにさらされることがあり、このラーガ・ドヴェーシャにさらされた願望、すなわち欲望を持つ時、人は、与えられた自由意志を自由に使えなくなります。

ですから、サンカルパそのものを分析し、扱う必要があります。

祈りという行為においてサンカルパには、「総体的な祈り」と「個人的な祈り」の2種類があり、個人的な祈りは、「私は行い手である」、「私は体験者である」という観念を表わしています。

第6章4番目の詩の、全てのサンカルパを手放した人[サルヴァ・サンカルパ・サンニャーシー]は、行い手であるという観念がありませから、「個人的な祈り」はなく、「総体的な祈り」のみがあります。

「個人的な祈り」は、はじめ、お金や、子宝など、自分を幸せにしてくれるであろう物であるかもしれませんが、祈りの内容を常に見直し、更新していくことでサンカルパが育ち、より意味のある人生の目的をみつけることができ、穏やかで安定した考えを得ます。

その穏やかで安定した考えを得た人、お金や物が自分自身を幸せにしたりしないことを見極めたヨーギーのサンカルパは「自分自身の精神的な成長」です。

「総体的な祈り」とは、「生きとし生けるもの全てが幸せになれますように」という祈りです。

日々祈るうちに、この祈りの意味が見えてきます。

その全体の調和や平和、幸せを願う姿勢が、考え方に反映され、行動基準が、自己中心的から調和的へとシフトしていきます。

その人は、与えられていることを理解し、ちっぽけで取るに足らない自分から、寛大で平和な自分へと成長を遂げます。

物事を見る目を、広く、深くし、ゆとりや思いやりを与えてくれます。

その成熟した考えである人が、あるがままを見るのです。

◎感覚器官を引き下げる

見極めのある考えによってのみ[マナサー エーヴァ]、感覚器官の集まりが、完全に引き下げられなければならないと、クリシュナは繰り返しています。

感覚器官と行動器官[インドリヤーニ]の集まり[グラーマ]を 、それぞれが働いている分野から撤退させ、元々の状態に配置する[ヴィニヤムミャ]と言いました。

これは、瞑想で座っている間、考えを瞑想している対象物に引き戻す、ということです。

感覚器官を引き戻し、それぞれの場所に配置するとは、サンカルパが対処されて、感覚器官が対象物に向かって行ってしまわないということです。

全ての活動から引き下がることを、ここでは、完全なもの[サマンタタハ]として描写されています。

24番の詩では、瞑想中どの様に座り、姿勢、目線など、今まで述べられた全てを包括し、25番の詩では、それがまとめられます。