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ギーターヨーガ

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【ギーター】第6章25番目の詩

शनैश्शनैरुपरमेद् बुद्ध्या धृतिगृहीतया ।

śanaiśśanairuparamed buddhyā dhṛtigṛhītayā |

आत्मसंस्थं मनः कृत्वा न किञ्चिदपि चिन्तयेत् ॥६.२५॥

ātmasaṃsthaṃ manaḥ kṛtvā na kiñcidapi cintayet ||6.25||

根気強さを備えた知性で、ゆっくりゆっくり解消させますように

考えを自分自身に留め、他のことを考えませんように

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24番の詩では、瞑想中どの様に座り、姿勢、目線など、今まで述べられた全てを包括し、25番の詩では、それがまとめられます。

堅実なこと[ドゥルティ]には、勇気[ダイリャ]という意味もあり、配慮や、智恵も含みます。

ドゥルティ・グルヒータは、勇気や、堅実さ、智恵を備え持つブッデイ、つまり見極め[ヴィヴェーカ]を意味します。

このようなブッディがあるので、考えはアートマーにとどまります。

考えとは、自分自身であるということ、現れた形、すなわちミッテャーはサッテャンであると識別していきます。

ゆっくり、ゆっくり[シャナイヒ シャナイヒ]と、考えを解消していきます[ウパラメート]。

瞑想の対象、つまりアートマーだけにとどまります。

◎アートマーの定義

この詩のアートマーの意味を見ていきます。

そこでは、他のものは聞かれません(現れる音の形はありません)。

他のものは見られません(現れる色や形はありません)。

他のものが知られたりもしません(現れる知識はありません)。

また、アートマーは、属性から自由[ニルヴィシェーシャ]であり、それは、まさに純粋な意識[チャイタンニャ]です。

アートマーの本質が、「アートマーは、見られるものではなく見る人、聞かれるものではなく聞く人、知られるものではなく知る人、思われるものではなく、思う人です」と、チャーンドーギャ・シュルティで定義されました。

[यत्र नान्यत्पश्यति नान्यच्छृणोति नान्यद्विजानाति स भूमाथ यत्रान्यत्पश्यत्यन्यच्छृणोत्यन्यद्विजानाति तदल्पं यो वै भूमा तदमृतमथ यदल्पं तन्मर्त्यꣳ स भगवः कस्मिन्प्रतिष्ठित इति स्वे महिम्नि यदि वा न महिम्नीति ॥7.24.1॥]

ですから、考えをアートマーに置いたり、アートマーについて考えることなどできません。

アートマーを考えるとは、アートマーが私の考えの対象物、アートマーをこんな物として捉えられるものになるので、シュルティが述べることと矛盾します。

「全ての言葉(アートマーを述べるどんな言葉も形)は、アートマーを得ずに、考えと共に戻ってくる」とタイッティリヤ・ウパニシャドで言われる理由です。

[यतो वाचो निवर्तन्ते। अप्राप्य मनसा सह।12. 4.1]

まるで、考えと言葉が力を合わせて、アートマーを追いかけているようです。

それがあまりにも厄介な問題であるとわかり、結局、それなしで戻ってくる。

残念なことに、こんな風に、アートマーは表現されているものなのです。

◎アートマーが、どのように瞑想の対象物となるか?

 考えは、アートマーですから、アートマーの上に考えを置くことはできません。

考えをアートマーに持っていき、考えをそこにしばらく座らせておくと、考えの圧力によって、アートマーが、徐々に現れ出てくるようなものでもありません。

この詩をとりあげて翻訳された中には、このように説明されているものがありますが、それは全くの誤解を与えかねません。

アートマー エーヴァ イダム サルヴァムという表現で、アートマー、つまり自分自身[アートマー]は、この全て[イダム サルヴァム]と定義されています。

「イダム サルヴァム」とは、知る人[ニャーター]、知識[ニャーナ]、知識の対象[ニェーヤ]を示し、全て[サルヴァ]とは、これら3つ全てを、残らず包括しするものです。

個人の視点であれば、この全体の中に、知る人、知られるもの、知る人と知られるものを分ける知識(ミッテャーの知識)があります。

個人という結論があれば、世界を知れば知るほど、自分のサイズが小さくなります。

知る人は、アートマーそのものですから、知る人は、アートマーから離れてはいません。

知る人が、アートマーであるということを、はっきり見ても、「この知識は私のもの。これは私の知識」と言い、知識を、アートマーに属するものとして考えてしまいます。

木というヴルッティは、知識そのもので、わたしに属していますから、木ヴルッティは、わたしですが、わたしは木ヴルッティではないと認識します。

◎知る人、知識、知られるものはひとつ

こうした観念は、全く異なる鋳型に入れて作り直すことで、無効になります。

吟味し、アッビャーサすることで、間違った見方が、あるがままの見方へと書き換えられます。

この鋳型とは、ニャーター、ニャーナ、ニェーヤ、3つ全てが自分自身[アートマー]だけです。

夢の中では、夢の自分(知る人)がいて、夢のお母さん(知られる世界)いて、夢そのものの知識があります。

これら3つは、ただ、1つの光[ジョーティヒ]であり、1つの意識[チャイタンニャ]です。

目覚めた時、夢の中の知る人、夢の中の知られるもの、夢の知識、3つ全ては、まるで条件付されていたもので、再び自分に戻っていくことを理解します。

ですから、知る人も、知られるものも、知識も全ては、ただ意識であり、意識が、どの視点に自分を置くかにより、まるで特徴付けられ、まるで制限されていると理解します。

土で出来たポットの重さも、その色も、それはただ土の色で重さであり、ポットは自立した場所さえ持たないことを理解するように。

知る人、知識、知られるものは、意識から離れていないので、「知る人-意識」「知識-意識」「知られるもの-意識」として表現できます。

知られるものが、意識から離れて「在る」ことなど できません。

知られるものがあれば、意識が「在る」、知られるものがなくても、意識は「在る」。

知られるもの、つまり対象物は、破壊できますが、「在る」そのものは、破壊できません。

◎何も、存在から離れてはいない

存在の本質に関して、存在[サット]と知識[チット]という2つの観点から見ることができます。

・サットの側面

「在る」に関して、どんなものも「在る」から離れてはありません。

例えば「机がある」「椅子がある」と言う場合、その「在る」は、机や椅子という名前と形[ナーマ・ルーパ]に特徴付けられています。

「椅子とは何か?」と分析するなら、椅子自体に存在はなく、材料である木だけが「在り」ます。

更に、木を分析すると、木にも存在はなく、パルプ(木の繊維)だけが「在る」のです。

更には、パルプを形作る粒子が在り、パルプには存在はありません。

吟味し続けるなら、「在る」そのものは、常に「在る」ことがわかります。

・チットの側面

自立して存在しているものがサッテャであり、それは意識[チャイタンニャ]です。

存在[サッテャ]によって、時間空間を含め、全ての存在は支えられ、意識[チャイタンニャ]によって、時間空間を含め全てが気づかれています。

意識のみが、自立して存在し、全てのものは、意識によって明らかです。

知られる対象とは、知る人[ニャーター]にとってあります。

一方、まさに知る人が存在するかどうかは、何も証明はいりません。

ポットと同様に、知る人を遡れば「在る」だけがあります。

知る人とは、自分自身でその存在が明らかな人に違いありません。

・本当の知る人とは?

私が、ポットを見る人である時、意識である「私」が、まるで「ポットを見る人」に形容[ヴィシェーシャ]されます。

考えの側面は、形容するものであり、自立して実在するものが、意識[アートマー]です。

それゆえ、知る人にとって意識があり、知識にとって意識があり、知られるものにとって意識があります。

「在る[サット]」という側面の、意識が存在としてあります。

知る人、知られるもの、知識の3つ全ては、意識の存在から全く離れてはいません。

この事実を理解することが、アートマ・サムスタム マナハ クルットヴァーです。

◎考えをまさに思考の源に方向付ける

考えは、分けるための道具であることを理解するなら、その考えの移り変わりを見れるのは、移り変わらな私が在るからです。

この方向転換を熟考[デャーナ]と言います。

思考を支えるものは、意識です。

例えば「樹の思考」の対象は樹ですが、樹も意識から離れていません。

そして「樹の思考」を知る人も、意識から離れていません。

これら3つ全ては、意識[アートマー]という、この理解も思考です。

この理解が、 3つが分かれているという無知を破壊して、この思考は解消します。

ストローの屈折は、光による目の錯覚だと理解するなら、思考は去り、あるがままを自然と見るように。

クリシュナは「他のものを考えないように[ナ キンチット アピ チンタエート]」 言いますが、それは、全てから分かれていないアートマーの理解から離れないということです。

他のことを考えるなら、この理解は、どこかに行ってしまうからです。

「樹の思考」「対象物である樹」「樹を見ている人」もアートマーです。

これら3つを支えるものに注意を向けることが、この詩で述べられる理解、熟考です。

ブッディを教えにさらすことで得られる智恵[ドゥルティ]が必要で、その洞察、知識の助けがあり熟考を続けることができます。

知る人、知られるもの、知識が、分かれているものとして考えてきたので、3つが同じ1つであると理解するには、しっかりと腰をすえ専心することが必要ですから、勇気[ドゥルティ]が必要です。

◎事実を見ることで、障害が取り除かれる

全てが1つという新しい見方は、当然ながら、明瞭になるまで大変ですが、見えていくにつれ、乗り越えられますから、心配せず、ただ、見ようとし続けます。

それには、勇気や、しっかりと信念を持ち取り組むことが必要です。

ゆっくり、ゆっくり[シャナイヒ シャナイヒ]という言葉を、シャンカラは「力づくではなく[ナ サハサー]」と解説しました。

アートマ・サムスタム マナハ クルットヴァーとは、考えをアートマーという対象にすぐに向けなさい、という意味ではないのです。

考え自体がアートマーですから、単に理解があるだけです。

それゆえ、考えを丁寧に扱うことに、意志を働かせることで、熟考する環境が作られます。

その整った環境下であれば、自動的に理解が起こります。

ある一定期間、ゆっくり、ゆっくり熟考し、アートマーに没頭します。

◎熟考に、意志は必要ない

意志は、座ることや考えの準備だけで、準備できると、意志は要りません。

熟考そのものに意志、すなわち「行ない手」という観念を明け渡します。

熟考が、意志に取って変わり、考えは自動的です。

美しいもの、愛おしいものを鑑賞する時、意志は必要なく、意志は、美しいもの、愛おしいものという理解の中に解消してしまいます。

熟考中、アートマーを得るために、「今日は、アートマーを得る!」と意気込んでも、その人がアートマーですから、アートマーを得ることはできません。

ですから、最初に、教えに自らをさらけ出す、思慮深さを作ります。

プロセスには努力が必要ですから、そこに意志は働きます。

ここで、アートマ・サムスタム マナハ クルットヴァ― ナ キンチット アピ チンタエートという表現で伝えられているように、何を目指しているのかを知っている必要があります。

知る人・知られるもの・知識は分かれていないこと、もしくは「私は全ての真実[サッテャ・スヴァルーポーハム]」という表現を使い瞑想し、アートマーの理解が、考えに起こるよう仕向けるのが、教えにそった熟考です。

新しい体験や、知識が作られるのではなく、むしろ理解したことに、何度も何度も、考えを向けます。

これが、アートマ・サムスタム マナハ クルットヴァー ナ キンチット アピ チンタエートという意味です。