शनैश्शनैरुपरमेद् बुद्ध्या धृतिगृहीतया ।
śanaiśśanairuparamed buddhyā dhṛtigṛhītayā |
आत्मसंस्थं मनः कृत्वा न किञ्चिदपि चिन्तयेत् ॥६.२५॥
ātmasaṃsthaṃ manaḥ kṛtvā na kiñcidapi cintayet ||6.25||
根気強さを備えた知性で、ゆっくりゆっくり解消させますように
考えを自分自身に留め、他のことを考えませんように
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24番の詩では、瞑想中どの様に座り、姿勢、目線など、今まで述べられた全てを包括し、25番の詩では、それがまとめられます。
堅実なこと[ドゥルティ]には、勇気[ダイリャ]という意味もあり、配慮や、智恵も含みます。
ドゥルティ・グルヒータは、勇気や、堅実さ、智恵を備え持つブッデイ、つまり見極め[ヴィヴェーカ]を意味します。
このようなブッディがあるので、考えはアートマーにとどまります。
考えとは、自分自身であるということ、現れた形、すなわちミッテャーはサッテャンであると識別していきます。
ゆっくり、ゆっくり[シャナイヒ シャナイヒ]と、考えを解消していきます[ウパラメート]。
瞑想の対象、つまりアートマーだけにとどまります。
◎アートマーの定義
この詩のアートマーの意味を見ていきます。
そこでは、他のものは聞かれません(現れる音の形はありません)。
他のものは見られません(現れる色や形はありません)。
他のものが知られたりもしません(現れる知識はありません)。
また、アートマーは、属性から自由[ニルヴィシェーシャ]であり、それは、まさに純粋な意識[チャイタンニャ]です。
アートマーの本質が、「アートマーは、見られるものではなく見る人、聞かれるものではなく聞く人、知られるものではなく知る人、思われるものではなく、思う人です」と、チャーンドーギャ・シュルティで定義されました。
[यत्र नान्यत्पश्यति नान्यच्छृणोति नान्यद्विजानाति स भूमाथ यत्रान्यत्पश्यत्यन्यच्छृणोत्यन्यद्विजानाति तदल्पं यो वै भूमा तदमृतमथ यदल्पं तन्मर्त्यꣳ स भगवः कस्मिन्प्रतिष्ठित इति स्वे महिम्नि यदि वा न महिम्नीति ॥7.24.1॥]
ですから、考えをアートマーに置いたり、アートマーについて考えることなどできません。
アートマーを考えるとは、アートマーが私の考えの対象物、アートマーをこんな物として捉えられるものになるので、シュルティが述べることと矛盾します。
「全ての言葉(アートマーを述べるどんな言葉も形)は、アートマーを得ずに、考えと共に戻ってくる」とタイッティリヤ・ウパニシャドで言われる理由です。
[यतो वाचो निवर्तन्ते। अप्राप्य मनसा सह।12. 4.1]
まるで、考えと言葉が力を合わせて、アートマーを追いかけているようです。
それがあまりにも厄介な問題であるとわかり、結局、それなしで戻ってくる。
残念なことに、こんな風に、アートマーは表現されているものなのです。
◎アートマーが、どのように瞑想の対象物となるか?
考えは、アートマーですから、アートマーの上に考えを置くことはできません。
考えをアートマーに持っていき、考えをそこにしばらく座らせておくと、考えの圧力によって、アートマーが、徐々に現れ出てくるようなものでもありません。
この詩をとりあげて翻訳された中には、このように説明されているものがありますが、それは全くの誤解を与えかねません。
アートマー エーヴァ イダム サルヴァムという表現で、アートマー、つまり自分自身[アートマー]は、この全て[イダム サルヴァム]と定義されています。
「イダム サルヴァム」とは、知る人[ニャーター]、知識[ニャーナ]、知識の対象[ニェーヤ]を示し、全て[サルヴァ]とは、これら3つ全てを、残らず包括しするものです。
個人の視点であれば、この全体の中に、知る人、知られるもの、知る人と知られるものを分ける知識(ミッテャーの知識)があります。
個人という結論があれば、世界を知れば知るほど、自分のサイズが小さくなります。
知る人は、アートマーそのものですから、知る人は、アートマーから離れてはいません。
知る人が、アートマーであるということを、はっきり見ても、「この知識は私のもの。これは私の知識」と言い、知識を、アートマーに属するものとして考えてしまいます。
木というヴルッティは、知識そのもので、わたしに属していますから、木ヴルッティは、わたしですが、わたしは木ヴルッティではないと認識します。
◎知る人、知識、知られるものはひとつ
こうした観念は、全く異なる鋳型に入れて作り直すことで、無効になります。
吟味し、アッビャーサすることで、間違った見方が、あるがままの見方へと書き換えられます。
この鋳型とは、ニャーター、ニャーナ、ニェーヤ、3つ全てが自分自身[アートマー]だけです。
夢の中では、夢の自分(知る人)がいて、夢のお母さん(知られる世界)いて、夢そのものの知識があります。
これら3つは、ただ、1つの光[ジョーティヒ]であり、1つの意識[チャイタンニャ]です。
目覚めた時、夢の中の知る人、夢の中の知られるもの、夢の知識、3つ全ては、まるで条件付されていたもので、再び自分に戻っていくことを理解します。
ですから、知る人も、知られるものも、知識も全ては、ただ意識であり、意識が、どの視点に自分を置くかにより、まるで特徴付けられ、まるで制限されていると理解します。
土で出来たポットの重さも、その色も、それはただ土の色で重さであり、ポットは自立した場所さえ持たないことを理解するように。
知る人、知識、知られるものは、意識から離れていないので、「知る人-意識」「知識-意識」「知られるもの-意識」として表現できます。
知られるものが、意識から離れて「在る」ことなど できません。
知られるものがあれば、意識が「在る」、知られるものがなくても、意識は「在る」。
知られるもの、つまり対象物は、破壊できますが、「在る」そのものは、破壊できません。
◎何も、存在から離れてはいない
存在の本質に関して、存在[サット]と知識[チット]
・サットの側面
「在る」に関して、どんなものも「在る」から離れてはありません。
例えば「机がある」「椅子がある」と言う場合、その「在る」は、机や椅子という名前と形[ナーマ・ルーパ]に特徴付けられています。
「椅子とは何か?」と分析するなら、椅子自体に存在はなく、材料である木だけが「在り」ます。
更に、木を分析すると、木にも存在はなく、パルプ(木の繊維)だけが「在る」のです。
更には、パルプを形作る粒子が在り、パルプには存在はありません。
吟味し続けるなら、「在る」そのものは、常に「在る」ことがわかります。
・チットの側面
自立して存在しているものがサッテャであり、それは意識[
存在[サッテャ]によって、時間空間を含め、
意識のみが、自立して存在し、全てのものは、
知られる対象とは、知る人[ニャーター]にとってあります。
一方、まさに知る人が存在するかどうかは、
ポットと同様に、知る人を遡れば「在る」だけがあります。
知る人とは、自分自身でその存在が明らかな人に違いありません。
・本当の知る人とは?
私が、ポットを見る人である時、意識である「私」が、まるで「ポットを見る人」に形容[ヴィシェーシャ]されます。
考えの側面は、形容するものであり、自立して実在するものが、意識[アートマー]です。
それゆえ、知る人にとって意識があり、知識にとって意識があり、知られるものにとって意識があります。
「在る[サット]」という側面の、意識が存在としてあります。
知る人、知られるもの、知識の3つ全ては、意識の存在から全く離れてはいません。
この事実を理解することが、アートマ・サムスタム マナハ クルットヴァーです。
◎考えをまさに思考の源に方向付ける
考えは、分けるための道具であることを理解するなら、その考えの移り変わりを見れるのは、移り変わらな私が在るからです。
この方向転換を熟考[デャーナ]と言います。
思考を支えるものは、意識です。
例えば「樹の思考」の対象は樹ですが、樹も意識から離れていません。
そして「樹の思考」を知る人も、意識から離れていません。
これら3つ全ては、意識[アートマー]という、この理解も思考です。
この理解が、 3つが分かれているという無知を破壊して、この思考は解消します。
ストローの屈折は、光による目の錯覚だと理解するなら、思考は去り、あるがままを自然と見るように。
クリシュナは「他のものを考えないように[ナ キンチット アピ チンタエート]」 言いますが、それは、全てから分かれていないアートマーの理解から離れないということです。
他のことを考えるなら、この理解は、どこかに行ってしまうからです。
「樹の思考」「対象物である樹」「樹を見ている人」もアートマーです。
これら3つを支えるものに注意を向けることが、この詩で述べられる理解、熟考です。
ブッディを教えにさらすことで得られる智恵[ドゥルティ]が必要で、その洞察、知識の助けがあり熟考を続けることができます。
知る人、知られるもの、知識が、分かれているものとして考えてきたので、3つが同じ1つであると理解するには、しっかりと腰をすえ専心することが必要ですから、勇気[ドゥルティ]が必要です。
◎事実を見ることで、障害が取り除かれる
全てが1つという新しい見方は、当然ながら、明瞭になるまで大変ですが、見えていくにつれ、乗り越えられますから、心配せず、ただ、見ようとし続けます。
それには、勇気や、しっかりと信念を持ち取り組むことが必要です。
ゆっくり、ゆっくり[シャナイヒ シャナイヒ]という言葉を、シャンカラは「力づくではなく[ナ サハサー]」と解説しました。
アートマ・サムスタム マナハ クルットヴァーとは、考えをアートマーという対象にすぐに向けなさい、という意味ではないのです。
考え自体がアートマーですから、単に理解があるだけです。
それゆえ、考えを丁寧に扱うことに、意志を働かせることで、熟考する環境が作られます。
その整った環境下であれば、自動的に理解が起こります。
ある一定期間、ゆっくり、ゆっくり熟考し、アートマーに没頭します。
◎熟考に、意志は必要ない
意志は、座ることや考えの準備だけで、準備できると、意志は要りません。
熟考そのものに意志、すなわち「行ない手」という観念を明け渡します。
熟考が、意志に取って変わり、考えは自動的です。
美しいもの、愛おしいものを鑑賞する時、意志は必要なく、意志は、美しいもの、愛おしいものという理解の中に解消してしまいます。
熟考中、アートマーを得るために、「今日は、アートマーを得る!」と意気込んでも、その人がアートマーですから、アートマーを得ることはできません。
ですから、最初に、教えに自らをさらけ出す、思慮深さを作ります。
プロセスには努力が必要ですから、そこに意志は働きます。
ここで、アートマ・サムスタム マナハ クルットヴァ― ナ キンチット アピ チンタエートという表現で伝えられているように、何を目指しているのかを知っている必要があります。
知る人・知られるもの・知識は分かれていないこと、もしくは「私は全ての真実[サッテャ・スヴァルーポーハム]」という表現を使い瞑想し、アートマーの理解が、考えに起こるよう仕向けるのが、教えにそった熟考です。
新しい体験や、知識が作られるのではなく、むしろ理解したことに、何度も何度も、考えを向けます。
これが、アートマ・サムスタム マナハ クルットヴァー ナ キンチット アピ チンタエートという意味です。