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ギーターヨーガ

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【ギーター】第6章28番目の詩

युञ्जन्नेवं सदात्मानं योगी विगतकल्मषः ।

yuñjannevaṃ sadātmānaṃ yogī vigatakalmaṣaḥ |

सुखेन ब्रह्मसंस्पर्शमत्यन्तं सुखमश्नुते ॥६.२८॥

sukhena brahmasaṃsparśamatyantaṃ sukhamaśnute ||6.28||

瞑想者は、アダルマから生まれる葛藤はなく、いつも、このように考えを結び付け

ブランマンと出会う(認識から生まれる)絶対的な幸せを、容易に得ます

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27番の詩は、行い手[カルター]はウッタマ・スカで、対象[カルマ]は瞑想者でした。

28番の詩は、カルターが瞑想者で、カルマはアッテャンタ・スカです。

クリシュナは、起こり得る混乱を解決するため、熟考を成し遂げた結果を両方から言い表します。

カルターと、カルマの間には違いはないことをはっきりさせるため、「アーナンダがヨーギーに訪れる」「ヨーギーがアーナンダを得る」と言い換えました。

◎主体と対象物との違いの解消

川が海に流れ込んでいる地点で、川と海の違いはないように、対象物と主体は、同じひとつのものです[カルター エーヴァ カルマ]。

波も水であり、水しかないように、アートマー以外のものはないのですから、主体と対象という違いはありません。

アーナンダを得る人は、自分自身以外のアーナンダを見たりしません。

これは例えようの無い、自分自身についての知識ですから、2つの詩はセットで読みます。

考えを結びつける[アートマーナム ユンジャン]は、「私だけが全てである[アハム エーヴァ イダム サルヴァム]」という知識と、考えが結び付けられることです。

「考えがある」と言う時、「ある」が私、考えがとこに行こうと、何を思おうと、それも自分自身です。

「考えも私から離れていない」という理解で、瞑想者はアッテャンタ・スカ、つまりウッタマ・スカを得るのです。

祈り深い生き方が、瞑想を成功させる為に重要なので、ヨーギーは、あらゆる困難から自由な人で、アダルマからも、プンニャとパーパからも自由な人[ヴィガタ・カルマシャ]として描写されています。

アダルマから生まれる葛藤がない人は、アッテャンタ・スカを得るのです。

◎アッテャンタ・スカは、体験ではない

アッテャンタ・スカは、永遠の至福ではなく、人の本質[スヴァルーパ]です。

至福と言うなら、経験できるものですから、知識[ニャーナ]はそこにありません。

このアッテャンタ・スカは、ブランマンの理解から生まれるスカと定義されます。

アッテャンタ・スカを得るとは、ハグするような、何か心地良いものに触れた時のスカ[スパルシャ・スカ]ではなく、「アートマーはブランマン」という知識によって、ブランマ・サムスパルシャ・スカがあるのです。

ブランマンの本質ですから、スヴァルーパ・スカと呼ばれ、得られるスカにおいても、ブランマンの本質である全体として、そのスカはあります。

瞑想者は、自分自身がブランマンという知識で、このスヴァルーパ・スカを得ます。

◎至福は必ず終わりがある

シャンカラは解説で、アッテャンタ・スカとは、終わることがないものと言います。

このスカが至福なら体験ですから、体験は限りがあり、終わってしまいます。

状況と接触する感覚器官、更にその後ろの考えがご機嫌な時、スカが体験されます。

体験できるスカは、時間の中にあり、常に移り変わり、永遠ではないですが、全てのスカの中に真実があり、それがアートマーの本質[スヴァルーパ]です。

アートマーは、あらゆる制限から自由です。

限りのないもの[プールナットヴァ]、つまり「私が全体[サルヴァムアハム アスミ]」という理解は、2つの詩の中で、ウッタマ・スカと、アッテャンタ・スカとして表現されるスヴァルーパ・スカです。

アートマーのスヴァルーパですから、終わりが来ることはありえません。

アートマーがそこにある限り、そこにはスカがあります。

◎スヴァルーパ・スカを得るのに努力は要らない

何かをすればするほど、多くの物が手に入り、行いし続ければし続けるほど、結果は素晴らしくなるというのが、この世の法則ですから、私達は「どうしたら、このスカを得れますか?」と言います。

しかし、無限のスカを得るのは、無限のカルマではありません。

無限のカルマをしなければならないのなら、全くカルマをしないことになってしまいます。

(瞬きをしないということは、ずっと目を開けている、すなわち行いをしないということになってしまう様に。)

このスカは自分自身ですから、行い[カルマ]は要りません。

ハワイというスカなら、空港までの渋滞や、ハワイに着いてもずっと雨だったり、やっと晴れたと思ったら、その日には、もう帰らなければならなかったりと、ドゥッカを伴います。

ドゥッカがあっても、ハワイに行くのは、ほんの少しのスカ、ほんの少しの太陽の光を浴びるため。

ほんの少しのスカ[アルパ・スカ]を得るために、努力し、投資し、多くのドゥッカを経験しますが、アッテャンティカ・スカを得るプロセスには、ドゥッカはなく、ずっと喜ばしいものなのです。

アッテャンタ・スカに努力は必要なく、「私は全体」という、シャーストラの言葉によって、安易に[スケーナ]発見されます。

両親は、子供には大物になって欲しいと願い、預言者や、素晴らしいグルも「あなたが問題だ」と、私を受け入れません。

「私は全体」と言うシャーストラだけが、私を完全に受け入れています。

◎シャーストラの世界観

全ての神学は、「欠陥のあるあなたを救いましょう」という視点で、皆が、誰かの救世主になりたいと思っています。

シャーストラは、「あなたは、あれになる[タットトヴァム バヴィッシャシ]」ではなく、「あなたは全体[タット トヴァム アシ]」と言います。

「受け入れる」ことさえなく、「私が完全無欠の全体だ」と教えるだけで、完全無欠の私を咎めることなど出来ません。

私は、唯一の存在[サッテャ]で、他のもの全ては、私に頼っているもの[アナートマー]です。

唯一、自分自身で明らかな存在[スヴァタ・シッダ]で、他の全てのものは、自分自身で明らかな私に頼っています。

自由[モークシャ]が自分自身なのです。

モークシャとは、気づいていようが、いまいが、「はじめから私は既に自由」という、まさに自分自身の知識です。

すでに確立されたもの[シッダ・ヴィシャヤ]で、この知識を得るとは、まだ得ていないものを得ることではありません。

ですから、教えが始まること自体が喜びで、この旅の途中もずっと喜びです。

しかし、他のスカは、努力を必要とします。

シャーストラによると、天国に行くことでさえ、時間をかけ、特定の儀式を適切に行うなど、多くの努力が必要です。

天国[スヴァルガ]も、相対的なスカですから、それはハワイのようなひとつの場所で、ある一定期間過ごしたら、去らねばなりません。

天国で得られるスカは、永遠ではないスカ[アニッテャ・スカ]で、手に入れるために、多くの努力が必要です。

◎全ての願望は、アートマーのためにだけある

しかし、アッテャンタスカは、ずっとスカですから、全く努力は必要ありません。

ありとあらゆる欲望は、アナートマーのためのものであり、アートマーのためではありません。

天国でさえ、アナートマーで、自分自身ではありません。

天国やお金という、得られる対象や、到達する対象は、アナートマーで、全アナートマーは、幸せ[アートマー]のためだけにあります。

スカを得ることも、何かを体験したり、あれこれ欲しがったり、あちこちに行きたいと思うのも、幸せ[アートマー]のためにあるアナートマーです。

アナートマーへの願望を手放し、アートマ・イッチャーを選びます。

アナートマ・イッチャーに適応されていた論理が、アートマ・イッチャーに当てはまることはありません。

アートマーは既に達成されているものですから、私は、新しいアートマーを作り出したりしません。

◎アートマーは永遠の存在

アートマーはそれ自体で輝いているもの[ニッテャ・プラシッダハ]ですから、磨く必要もありません。

永遠の存在なので、決して何かに隠されたりしませんが、唯一、それを覆い隠してしまう可能性があるものは、無知です。

無知は、こすり落とすようなものではないので、知識が定着するなら消えてしまいます。

ですからクリシュナは、「努力なく、瞑想者は本質であるスカを得る」と言いました。

アナートマーと触れ、生まれるスカは、永遠ではありませんが、ブランマンの知識から生まれるスカは、永遠[ニッテャ]です。

ここでは他のスパルシャとは違うことを示すためだけにサムスパルシャが使われています。

努力なしにニッテャ・スカを得ますから、「接触[サムスパルシャ]」は、アートマーがブランマンと認識するという意味なのです。

ジーヴァが、スカ・スヴァルーパですから、主体と客体の違いはなく、あるのは、ただアートマーだけです。

到達するものでもなく、ただ、無知と間違いを落としていくだけです。

ヨーギーに辿り着くアーナンダと、アーナンダを得るヨーギーというのは、同じひとつのものなのです。

◎唯一の道-ニャーナ

このスカを得るに至るヨーガの道はありませんから、ヨーガが、知識から独立したものでなく、間接の道具だということを、認識する必要があります。

ゴールは唯一、ニャーナの道だけです。

第6章のヨーガは、知識のみから成り立つ熟考[निदिध्यासन]のこと、つまりニャーナの道のことです。

知識を追求するために、アシュターンガ・ヨーガやカルマ・ヨーガ、全てのヨーガの鍛錬は、とても役に立ちます。

ダルマの人生を、生きなければならならないので、これはカルマ・ヨーガを意味します。

カルマ・ヨーガは、祈り、帰依[バクティ]を含み、それらが知識を得るに役立ちます。

唯一、私たちに開かれた道は、アートマーがブラフマンであるという知識、ブランマンとひとつであるという知識は、熟考を繰り返し行った最終結末です。

ギーターで扱われているヨーガは、ニャーナに始まり、ニャーナで終わります。

熟考[ニディッデャーサナ]の前に、シャーストラが述べるその世界観を聞くこと[シュラヴァナ]があります。

それゆえ、ニディッデャーサナは、この世界観を邪魔するものをきれいに取り除きます。