सर्वभूतस्थमात्मानं सर्वभूतानि चात्मनि ।
sarvabhūtasthamātmānaṃ sarvabhūtāni cātmani |
ईक्षते योगयुक्तात्मा सर्वत्र समदर्शनः ॥६.२९॥
īkṣate yogayuktātmā sarvatra samadarśanaḥ ||6.29||
この熟考によって考えが解消し、至る所、同じであると見る人は
全ての存在の中に宿る自分自身、そして自分自身の中に全ての存在を見ます
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ヨーギーは、全ての存在の中に宿る自分自身を認識する[サルヴァ・ブータスタム アートマーナム パッシャティ]。
そして、全てのものが自分自身の中に存在する[サルヴァ・ブーターニ チャ アートマニ]と、自分自身を理解しています。
私は、全ての中に行き渡り、同時に全てが私の中にあります。
熟考によって考えが解消した人[ヨーガ・ユクタ・アートマー]は、この熟考を成し遂げた人です。
◎全ての中にある変わらない同じもの
その人は、全ての物は、同じであると見る人です[サルヴァットラ サマ・ダルシャナハ]。
サマとは、アートマーのことです。
言い換えるなら、全ての中にまさに同じものがある、というヴィジョンです。
生きとし生ける者の中に、質が何ひとつないもの[ニルヴィシェーシャ]と、特有の物[ヴィシェーシャ]があります。
例えば、ネックレスや指輪などの中に、1つのもの、金があります。
ネックレスや指輪のような形は、ヴィシェーシャです。
ネックレスや指輪に関して、ニルヴィシェーシャが、サッテャである金です。
金には多くのヴシェーシャ、さまざまな名前と形[ナーマ・ルーパ]があります。
指輪やネックレスはその存在[サッテャ]を、金の中に持つように、全てのナーマ・ルーパは、その存在[サッテャ]を、ブランマンに持っています。
そして、私[アートマー]は、ブラフマンです。
質から自由であり[ニルヴィシェーシャ]、全ての中にあり[サルヴァットラ]、全ての名前と形にその存在を貸し与えられているサッテャを知る人が、サルヴァットラ サマ・ダルシャナハと呼ばれます。
どこを見ようと、その人はブラフマンを見るのです。
◎ここで述べられていることの理解が、熟考
その人は、自分自身について無知がありません。
その世界観は、自分自身が全ての生き物の中にあり、全ての生き物が自分の中にあります。
29番~31番の詩で述べられる、完璧なヴェーダーンタの世界観が知識として述べられ、これらを理解することで、熟考できるのです。
「私」という言葉の意味は、体・考え・感覚の複合体ではありません。
「私は太っている」と言う時、体が「私」になり、「私は落ち着かない」と言う時、考えが「私」になり、「私は疲れている」と言う時、プラーナが「私」になります。
肉体が私、もしくは、私が肉体に住んでいるとみなすのです。
2つの状況が、ここでは否定されます。
私は、全ての生き物の中に宿り[サルヴァブータスタ]、たった1つの体の中にいるのではありません。
◎対象物とはならないアートマーをどのように、理解するのか?
ビーズの中の糸が見えなくても、糸がそこにあることは推測できますが、知覚されたり、推理されるものは、私に知られる対象ですから、アナートマーです。
様々な生き物の中にある1つのアートマーを認識するなら、アートマーは認識の対象になりますが、アートマーは対象物として、決して認識できません。
アートマーは唯一であり、それが「私」です。
このアートマーに明らかなものが、全てアナートマーです。
それは、ある肉体だけに在るのではありません。
それは、観念の私[アハンカーラ]で、それが個人[ジーヴァ]です。
更に、個人を純粋な意識[チャイタンニャ]のみとして知ります。
世界の全ての物、全ての生き物は、その意識の中にあり、意識には、特別な場所はありません。
◎意識[アートマー]は、どこか特定の場所にあるのではない
意識が、生き物だけにあると見るなら、別の生き物の中にも意識があることになります。
ビーズの間の糸には、場所があることを見たり、推測して知っています。
しかし、意識が特別な場所を持つなら、どのようにそれを理解できるのか?
意識は、場所を持たないと理解すること以外に、それを理解する方法はありません。
位置という概念は、空間の中に存在するものです。
「東京」と「千葉」の間には、空間があるので、「皇居は東京にあり、ディズニーランドは千葉にある」と言います。
肉体は、場所がなければなりませんし、概念も場所があります。
あらゆる場所が、空間と時間の枠組みの中にしか存在しないことが分かります。
空間・時間概念と、空間・時間概念の中にある対象物が、存在する、それこそが意識、サルヴァ・ブータスタ・アートマーと呼ばれるもの、自分自身であり、全てのものの真実です。
◎時間、空間もまた、アートマーの中に、その存在を持つ
質のない意識[ニルヴィシェーシャ・チャイタンニャ]が、私の本質だと理解するなら、私は、ある特定の場所に位置していないことが分かります。
時間と空間は、絶対的ではなく、質のない意識[ニルヴィシェーシャ・チャイタンニャ]は、空間・時間の中に位置しません。
意識[チット]は、存在[サット]で、サットはチットです。
このサット・チット・アートマーの中に、全ての物がその存在を持っています。
認識が起こる生き物(動物や植物)の中に意識があると考えるので、岩には意識はなく、認識が起こる生き物だけが意識を持つ、と言うかもしれませんが、そうではありません。
光が反射するものがなければ、色として輝かないように、意識は全てに満ちていて、存在として岩を成り立たせています。
ただ、認識としては現れてはいないだけです。
生き物(動物や植物)の中だけに意識があるという、推測の対象物はアナートマーです。
意識の中に全てがあることが理解されると、あらゆる物は、私の中に存在を持ちます。
指輪やネックレスは、金の中に存在を持つように。
全ての物の基盤[アディシュターナ]は、自分自身ですから、全てに行き渡り、空間をはじめとする、空間の中にある全ての物が、自分自身に支えられ生かされています。
私は限りがないので、時間と空間に制限されません。
そして、まさにこの限りのない意識の中に、全ての物がその存在を持っています。
「私[アハム]」の中に持っているのです。
アハム、アートマーは、個人の自分自身ではなく、それは全ての物の中に住む自分自身[サルヴァ・ブータスタ・アートマー]です。
◎知識によって、全ての物が自分自身に解消する
(瞑想者は)全ての物を自分自身の中に見る[サルヴァ・ブーターニ チャ アートマニ イークシャテー]、これが解消です。
この解消は、無知や間違った見方がなくなり、全てを見通してしまうことです。
ラヤ、プララヤと呼ばれる、違う種類の解消もあります。
ニッテャ・ラヤは、寝る時に毎日起こる解消で、個人の主観的な考えや、経験、全ての物事が、睡眠中の自分自身の中に溶け込みます。
マハー・プララヤは、宇宙の解消があり、創造、維持、解消[スルシュティ・スティティ・プララヤ]を繰り返します。
マハー・プララヤは、個人の熟睡ではなく、全体規模、宇宙規模の眠りで、何も無くなったりしません。
熟睡から覚めても、私も世界も寝る前と同じに戻ります。
マハー・プララヤも同様に、創造物も元通りに戻りますから、熟睡状態の延長のようなもの、これらはサイクルなのです。
現れた状態から、現れていない状態になること、解消や解決がプララヤ。
現れていない状態から、現れた状態になること、創造がスルシュティ。
現れた形が、絶え間なく変化を受け続けている状態、維持がスティティ。
毎分毎秒、体は変化していますが、目覚めたら鼻が、後頭部にあったという変化はありません。
変化はあっても、認識され得る維持[スティティ]があります。
太陽は、常に内部で破裂し、1分前に見た太陽と同じではなく、太陽も寿命が尽きるかもしれません。
全てが絶えず変わり続け、創造、維持、解消があるのです。
このサイクルは、アートマーの現われた姿と、現れていない姿でしかありません。
◎モークシャも解消
3つ目のプララヤが、完全な解消[アッテャンタ・プララヤ]、それはモークシャです。
これは、何か消えてしまうようなことではありません。
土器は、サッテャである土を理解することで解消するように、あらゆる対象物は、サッテャ・ヴァストゥの理解の中に解消します。
様々な特徴を伴う、全ての名前と形が現れていない状態になる時、ラヤ、またはプララヤと呼ばれますが、これは、ニッテャ・ラヤかマハー・プララヤのどちらかです。
しかし、完全な解消[アッテャンタ・プララヤ]は、対象物は、変わらずそのままで、同時に、源から決して分かれていないものとして見なされます。
この特殊な見方が、サルヴァ・ブーターニ チャ アートマニ イークシャテーという言葉で明らかにされています。
ヴェーダーンタは、サッテャとミッテャー、つまり源[カーラナ]と結果[カーリャ]を明らかにし、この分析は、原因と結果の分析[カーラナ・カーリャ・ヴァーダ]と呼ばれます。
実際、あるもの全てはサッテャ・ブランマンだけですから、原因や結果などなく、カーラナというステータスさえ付随的です。
これを知るなら、世界を、私、源[プルシャ]として見なすので、まったく同じ世界を違ったブッディで見ます。
故に全ての創造宇宙は、かすかな体と物理的な体で、これらは、創造されたものですが、私は、時間の制限を受けないもので、創造されたものではありません。
その私が、全ての本質、創造宇宙の基盤[アディシュターナ]です。
サルヴァ・ブータスタム アートマーナム サルヴァ・ブーターニ チャ アートマニ イークシャテーという言葉によって示される世界観の基盤です。
「金の上に指輪がある」と言う時、指輪が、金の上にあると思うかもしれません。
それが、アーシュラヤとアーシュリタという言葉で表現されます。
金が基盤[アーシュラヤ]、指輪がその上にあるもの[ア-シュリタ]です。
実際は、金は基盤[アディシュターナ]で、指輪は、それに頼っている物[アディシュテーヤ]です。
◎アートマーと、世界に、依存関係はない
ここでは、世界[アディステーヤ]は、アートマーが基盤[アディシュターナ]です。
これが、サルヴァ・ブータスタ・アートマーと呼ばれるものす。
アーシュラヤとアーシュリタという関係ではありません。
全てのブータは、アートマーと離れた別の物ではありません。
それゆえ、クリシュナは、サルヴァ・ブーターニ アートマニ イークシャテーと言います。
至るところ私と見る人[サルヴァットラ サマダルシャナ]は、指輪の金を見るのと同じように、全ての物がパラマートマーから分かれた別の物ではないと認識します。
ブランマンであるアートマーと離れた別の物ではない、という見方において、この無知は解消します。