◎第2章の概要
アルジュナはダルマの人生を生きることで、客観的に世界を理解し、視野が広がり、人生についての根本的な問題に行き詰まります。
自己の知識を求め、クリシュナに乞うことになる状況が整います。
クリシュナはアルジュナがするべき事をするように、彼の情熱を喚起することを試みます。
「アルジュナよ! この重大な事態に、どこから、あなたにその絶望感が起こったのですか? まったくそれは正義の人のすることではないし、あなたの輝かしい名声を上げるものでもありません。そして、人を天国へ導くような行いでもないのです[2-2]」
「ああ、パールタよ、敵を滅ぼす者よ。女々しくしないで。それは、あなたにはふさわしくありません。卑しく弱虫な心をあきらめて、立ち上がりなさい[2-3]」
アルジュナは、なぜ戦う事が出来ないのかを説明し、サンニャーサーの人生を歩みたいと仄めかしました。
モークシャに必要な知識を得るため、先生が必要であると知っていたので、「私は、あなたの弟子です」と宣言し、クリシュナに、その知識を求めました。
「話す事をやめて、戦いなさい!」という、単なるアドバイスをクリシュナは与えたのではなく、「あなたは知恵のある言葉を話していますが、あなたは悲しまれるべきでは無い人たちに対して悲しんでいます[2-11]」と話しはじめたのです。
さらに「アサットは、決して「ある」ことがなく、サットは、無いことなどありません[2-16]」とまで、クリシュナは教えましたから、このような機会をまるで待ち望んでいたかのようでした。
実際、第2章で、自己の知識とカルマ・ヨーガを話し、教えの全体を扱いました。
カルマ・ヨーガとは、好き嫌いによる束縛から、ある程度の自由を得る事を助ける生き方です。
一通りの教えを聞いたアルジュナは、この知識を達成した人の描写をアルジュナに求めました。
「ああ、ケーシャヴァ。自分自身の中に考えが定着している人、揺るがぬ知性の人の描写はどのようなものですか? どんなことにも考えが揺さぶられない人は、どのように話し、座り、歩くのですか?[2-54]」
クリシュナは、賢者を定義しました。
「ああ、パールタよ。考えに現れた全ての欲望を手放し、ただ自分自身によって、自分自身といて幸せな人である時、その人は知識に根付いた人と言われます[2-55]」
「不幸な苦しい出来事に関して影響されることなく、快楽に関して切望することがなく、渇望や恐れや怒りから自由なその人は、知識のとどまる人で、賢者だと言われます[2-56]」
「どのような状況にも執着しない人、喜びを得ると感極まったり、不快な状況を嫌ったりしない人、そういった人の知識が、じゅうぶんに成し遂げられている知識なのです[2-57]」
「ちょうど亀がその手足を引っ込めるように、その人が感覚器官の対象物から感覚器官を完全に引き下げることのできる人であるなら、その人の知識はしっかりととどまっています[2-58]」
クリシュナは、アルジュナの質問の意図を読み取り「賢者は、この世界とどのように関わるのか?」という質問に置き換えました。
賢者とは、知識がしっかり留まる人で、何一つ満たされない感覚を残しません。
その人は、自分自身でいて幸せで、幸せであるために自分以外の何をも必要としませんし、何も恐れません。
喜ばしくない状況にも、影響を受けることなく、ご機嫌にその状況と向き合いますし、喜ばしい状況にも、舞い上がったりもしません。
知識から現れる賢者の自然な振る舞いは、知識を探究する人にとって、価値や鍛錬[サーダナ]になりますのから、アルジュナは、賢者の資質に興味を持ち、クリシュナは、賢者の資質、全てを描写し、知識の妨げとなるものも述べました。
私たちは、ある種の物を思い続けることで、その物の客観的な性質に、主観的な性質を付加します。
例えば、単に購買力として、お金を見るなら問題はありませんが、お金を安全のために見るなら問題です。
お金そのものが、私を安全にしたりしません。
松葉杖がないと駄目なら、自分の足で立つことができないように、自分自身以外のものは、私が安全ではない事を、ただ確かにしているだけです。
安心な人とは、自分自身を安心だと感じさせるために自分以外に何も必要としません。
主観的に物事を見て空想するなら、その物に対する執着[サンガ]を作り出します。
クリシュナは、執着から何が生じるかを指摘しす。
「何かに思いを留める人に、それに関する執着が生まれ、執着から欲求が生まれ、欲求から怒りが生まれます。怒りから妄想が生まれ、妄想から記憶が失われます。記憶がなくなると、考えは無能になり、考えが無能なら、その人は破壊されます[2-62,63]」
賢者を本当に知りたいなら、あなた自身が賢くなければならないと、クリシュナは言いました。
人の知識は、振る舞い方で証明できるものではありません。
「全ての生き物にとっての夜の中で、自分自身を自由に扱える賢者は目覚めています。生き物たちが目覚めているその中に、気づいている賢者にとっては夜があります[2-69]」
賢者とそうでない人の違いは、昼と夜の違いのようです。
賢者が目覚めている事に、無知な人は目覚めてはいませんし、無知な人が目覚めている事に、賢者は目覚めてはいません。
無知な人が真実だと思う事に、賢者は少しも真実を見ません。
夜と昼は、ここでは無知と知識の事が意味され、実際、知識と無知の間にある違いを除けば何の違いもありません。
賢者は、全てが私[アートマー]であると理解しますから、世界は自分自身であると言います。
無知な人は、「ありとあらゆる事が私を苛立たせる」と考え、世界が自分を利用しようとしていると考えます。
クリシュナは、「賢者でない限り、賢者を理解する事ができませんから、 どんな描写も意味なく、賢者を知るためには、知識を得なければなりません。」と言わなければなりませんでした。
さらに解説するために、クリシュナはポジティブな例えを使います。
「ちょうど、あふれんばかりの海に水が入ってきても、それでも(海は)変わらないように、全ての感覚の対象物が入ってきても、賢者は平和を得ています(何も変わりません)。ところが、対象物を欲求する人は平和を得ません[2-70]」
雨が降ろうが降るまいが、川が入って来ようが来まいが、海は影響されようがありません。
海は、増えたり減ったりすることも、得ることも失う事もありません。
海自体が、他に何にも頼っていないので、どんな変化も、海らしさ、つまり、その満ち足りた本質に影響を与えず、そのものの栄光で、外側からの助けなく、海は満ちていて完全です。
同様に、賢者の満ち足りた本質は、その人自身に集約され、「私が全体」という事実に、賢者は目覚めていますから、満ちているために、何も他の物を必要としていません。
どんな付加も賢者の中に変化をもたらさず、何を差し引いても、満足が去ったりしません。
しかしながら、ため池の水は、雨が無いと干上がり、多くの雨が降るなら、氾濫してしまいます。
幸せであるために、何らかの願望を満たさねばならない人[カーマカーミー]は、ため池のようなものです。
何か嬉しい事が起こると、舞い上がり、嬉しくない事が起こると、どん底に落ちて自殺を犯す事すら考えるかもしれません。
クリシュナは、次のように言う事で第2章を締めくくります。
「全ての束縛のある欲求を手放して、切望から自由に、私は限られているという感覚や、「私の物」という感覚を持たず、動き回るその人は、平和を得ます[2-71]」
「これが、ブラフマンにしっかりとどまるという意味です。パールターよ。これを得ることで、人は惑わされません。たとえ人生の終りにでも、その中にとどまり、人は自由を得ます[2-72]」
賢者であることは、まさに、ブランマンである「状態」だとクリシュナは言いました。
この「状態」は、起きている状態や、薬で誘発された状態のように、失うであろう状態ではありません。
この「得る」とは、知識の意味であり、経験ではありませんから、この知識が得られたなら、それを失うはずがありません。
自分自身が全体[ブランマン]であると理解されるなら、ピリオドですから、サムサーラに戻ったりしません。
お墓に片足を突っ込んでいても、人生の最後の苦しみの中にいても、私が全体であることを理解するに至ったなら、私は自由な人です。
そして、たいへんな年寄りが、この知識を得ることができるなら、まだ目が見え、耳が聞こえる人、静かに熟考し、一定時間座れる事ができる人なら、確実に理解することができるのです。