आत्मौपम्येन सर्वत्र समं पश्यति योऽर्जुन ।
ātmaupamyena sarvatra samaṃ paśyati yo'rjuna |
सुखं वा यदि वा दुःखं स योगी परमो मतः ॥६.३२॥
sukhaṃ vā yadi vā duḥkhaṃ sa yogī paramo mataḥ ||6.32||
全ての状況の中の模範として自分自身を持ち、もし人が、喜びも苦しみもどちらも同じに見るなら
おお、アルジュナよ、そのヨーギーは、最も優れた人とみなされるのです
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賢者は、他者の痛みにも敏感になり、出来るだけ痛みの少ない行いを選択します。
人は、自分を基準にして、他者をまさに自分自身としてみなしますが、無知な人にも、成熟した人にもサーマンニャダルマはあります。
自分自身が模範である人[ātma-aupamyena]、すなわち成熟したヴィヴェーは、まさに自分自身と等しいものとして、全ての生き物を見る[sarvatra samaṃ paśyati]。
これが1つの意味で、もう1つの完全な見方は、後ほど解説されます。
◎ダルマの基準
自分が他者にして欲しいことは、他者が自分にして欲しいこと、この共通の原理がダルマです。
全ての生き物を等しく見る世界観の人は、自分がされたくないことはしません。
「何をしようと、その人は私に留まります(6-31)」が、更にここで説明されました。
賢者はアダルマをしてもイーシュワラに留まると、誤解されるので「賢者はアダルマな行いをしますか?」がここでの質問です。
もちろんクリシュナは否定します。
ニャーニーは、自分が傷つけられたくないなら、他者を傷つけようとはしません。
傷つけないこと[アヒムサー]は、ニャーニーにとって当然のことです。
成熟した人[ヴィヴェーキー]にとっても、アヒムサーは共通のダルマです。
ダルマを選び、思慮深く、知識を追求し、それを得た人にとって、ダルマは自動的です。
人を傷つける犯罪や、様々なアダルマな行いを見るなら、その後には、いつも小さなエゴがあります。
実際、大きいエゴも、小さなエゴも、泡のようなもの、泡は単に空気でしかありません。
エゴとは勘違い、実体のないもの、この勘違が、大小様々な全ての犯罪の裏にあります。
◎エゴの本質
安心のない人のエゴは、恐れや欲深さを持つ不安なエゴです。
恐れや欲深さを持つので不安で、不安なのでおびえます。
アダルマな行いは、不安なエゴに根付いていますから、恐れる人、欲深い人は、アダルマな行いをすることがあるのです。
エゴの本質は孤立し、二元性[ドヴァイタ]があるのでエゴにも安心はありません。
個人と神の二元性が元々の二元論で、全体[イーシュワラ]は自分以外で、私は取り残され、小さくなります。
この根っこのドヴァイタがあるなら、個人と個人の間の二元性[ジーヴァ・ジーヴァ・ドヴァイタ]があり、個人と世界の二元性[ジーヴァ・ジャガット・ドヴァイタ]もあります。
これらが真実なら、ジャガット以外にイーシュワラが存在し、そのイーシュワラは、別の個人のように、1人の別の人になり、イーシュワラと個人は別ものになります。
個人、世界、神の間に二元性があるので、孤立や、命には限りがあること、不完全であること、不十分であることが成立します。
それら全ては、恐れや欲深さ、痛み、悲しみを伴います。
◎エゴとは、無知に基づくもの
エゴとは孤立を意味し、様々な犯罪の背景にはエゴがありますが、クリシュナが述べるヨーギーは、このエゴの泡に針を刺した人です。
その泡、つまりエゴはもはやそこにはなく、たった一つの海だけがあるだけです。
エゴとは、アートマーの無知に基づくものですから、その無知がなくなれば、残るもの全てはパラム ブラフマ、唯一のアートマーです。
そこにエゴはなく、その人がアダルマな行いをする問題もなく、その人は、まさにイーシュワラに留まります。
その人は、当然ながら自分にとってのスカは、他者にとってもスカですし、自分にのとってのドゥッカは、他者にとってもドゥッカです。
「私は限られている」という概念がありませんから、妥協もありません。
自分自身が全ての生き物に存在し、全ての生き物は自分自身の中に在ります。
エゴは否定[バーディタ]されますから、アヒムサーが自然な振る舞いとなります。
そして、それが手放すということ[サンニャーサ・トヴァ]です。
はっきりとしたアートマーの見地に留まる人[サンミャグ・ダルシャナ・ニシュター]にとっては、アヒムサーを慎重に鍛錬する必要のない人ですから、アヒムサーは自動的で、まさにそれがその人の本質です。
ヨーギーの中で、最も優れた人[パラマ]であると、ここで述べられます。
◎この詩の2つ目の解釈
sukhaṃ vā yadi vā duḥkhaṃの「あるいは[ヴァー]」という言葉は、「あるいは(別の見方によって見ることができる)」という意味も含みます。
スカ・ドゥッカを生み出す状況を賢者は等しく見ます[samaṃ paśyati]。
まさに自分を模範として、スカ・ドゥッカを同じに見る人は、アートマーの本質を、満ち足りたもの、全体として理解します。
スカ・ドゥッカは、満ち足りたものの中にあるもの、スカ・ドゥッカの状況に遭遇しないのではなく、例え死というドゥッカでさえ、その人はアートマーの規準から見るということです。
自分自身は、満ち足りたものとして知るその人は、どんな状況に対する反応も揺れたりしません。
スカがあるから満足度が増し、ドゥッカがあるから満足度が減るということがありません。
その人は常にイーシュワラと共にいますから、イーシュワラから離れた状況などないのです。
前の詩で「その人が何をするとしても」と述べられました。
それは、アートマーが模範、規準[ウパマー]だからです。
私がアートマーです。
その私は、パラメーシュワラ、パラマートマーですから、自分自身の本質、満足を基盤として、あらゆる状況を受け入れます。
ギーター第2章で述べられた、池と海の例えと同じです。
आपूर्यमाणमचलप्रतिष्ठं समुद्रमापः प्रविशन्ति यद्वत् ।
तद्वत्कामा यं प्रविशन्ति सर्वे स शान्तिमाप्नोति न कामकामी ॥२.७०॥
水が入って来ても、満ちている海はいつも不動である様に
あらゆる感覚の対象物が(考えに)入ってきても賢者はシャーンティを得ています(何も変わりません)。
カーマカーミーは平和を得ません。[2-70]
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海は、自立し、満ちていて[āpūryamāṇam]不動で、揺るぎません[acalapratiṣṭhaṃ]。
海に、水源があるから海なのではありません。
雨や川の水が海に入ってくるから、海になるのではないし、海でなくなることもありません。
しかし池は、雨や、水源が必要です。
池の周りに井戸を掘れば、池の水位は下がり、泉水は枯れ、池には水が無くなります。
また、多くの水によって土手が崩されたなら、水に埋もれ、どこが池か分からなくなります。
水が枯れても、水に埋もれても、池とは呼べなくなります。
池は変化しますが、海は変化しません。
◎何にも頼っていない満足
水が入ってこようが来まいが、海はいつも同じでとどまります。
海が海であるために、何かに依存することなく、常に海は、海らしさを保っているように、賢者はの満足は、与えられた状況に頼っていません。
スカ・ドゥッカが起ころうと、その人はどちらも同じにみなしますから、穏やかであり続けるのです。
海が水に影響されたりしないように、五感の様々な対象物[カーマ]が入ってきても、その人を妨げたりしません。
一方、様々な対象に願望を持つ人[カーマカーミー]の幸せは、願望を満たすものに頼っていますから、その人が池に例えられます。
雨や洪水があれば、池は氾濫し、雨が降らなければ完全に干上がってしまいます。
カーマカーミーは、ヨーヨーのように、好ましいことあると浮き足立ち、好ましくないことがあれば落ち込みます。
しかしヨーギーは、自分自身にのみ留まるので、どんな悲劇が来ても、同じに留まります。
このように、ここでは2つの解釈ができます。
ヨーギーは、スカ・ドゥッカという、どんな状況においても同じままですし、自分自身を見るのと同じように他の人をみなしますから、アダルマをすることはありません。
私が、他者にして欲しいことは、皆に当てはまります。
全ての人が、このように生きるよう期待されますから、ヨーギーなら当然のことなのです!
◎他の人を傷つける過程で、自分も傷つけられる
他者を傷つける過程で、自分自身を傷つけずにいられる人はいません。
例えば、「LOVE(ゼロ)」から始まるテニスの試合に勝つなら、飛び上がり、ラケットを空中に放り投げるほど、最高な気分です。
しかし、握手を交える時、相手の悲しみを見るなら、喜びは全て消えてしまいます。
人の心というのは、悲しんでいる人に共感せずにはいられないのです。
それは、自分自身も同じ様な体験をしたことがあるからです。
他者の悲しみを感じずにはいられないのは、傷つけるその過程で、自分が傷つかずに相手を傷つけることは、どうしてもできないからです。
精神異常な人は、心が無感覚だと思うかもしれませんが、人の心とはそういうものですから、共感の欠片を持っています。
◎安全でないことが問題である
他者を傷つける過程で、自分が傷つかないことなど無い、これは事実で、シンプルなルールです。
全人類は、ダルマの法則に従うのが共通の原理[サーマンニャ・ダルマ]ですが、根本的な不安のために、皆に共通して追求されません。
不安な人は、ラーガ・ドヴェーシャに基づく優先順位に圧倒されて、相応しくないやり方で行動します。
「私は足りていない」というセンスから自由にならない限り、価値構造の混乱があります。
そこから自由な人は、全ての生き物の中に、いつも変わらない等しいものを見ます[sarvatra samaṃ paśyati]。
他の痛みに敏感になり、出来るだけ痛みの少ない行動を選択します。
このような人が、クリシュナがここで賞賛しているヨーギーです。
ダルマ沿った生き方をする成熟した人でさえ、、時折ダルマに反することがあります。
「いつもやられてるから、やり返さないわけにはいかない、これは道理にかなった事なんだ」と、言ったりもします。
また、アルジュナのように思いやりからの混乱で、自分のすべきことが見えなくなることもあります。
ニャーニーだけが、スカ・ドゥッカを同じようにみなし、自由でありえます。
ですから、全人類の中でそういった人は最も優れた人とみなされるのです[sa yogī paramo mataḥ]。
この詩には2通りの見方があり、1つ目は、シャーストラの世界観を述べるもの、もう1つは、その人の反応について描写、振る舞いに関するものです。
こうしたことが述べられ、瞑想、熟考の話題[デャーナ・ヨーガ]は完結します。
クリシュナは、デャーナヨーガを、2つの違った方法で2回述べました。
アルジュナは、次の2つの詩で質問をします。
これらの詩は、アルジュナの問題の本質をとても明らかにしています。