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ギーターヨーガ

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【ギーター】第4章3番目の詩


स एवायं मया तेऽद्य योगः प्रोक्तः पुरातनः ।

भक्तोऽसि मे सखा चेति रहस्यं ह्येतदुत्तमम् ॥४.३॥

sa evāyaṃ mayā te'dya yogaḥ proktaḥ purātanaḥ |

bhakto'si me sakhā ceti rahasyaṃ hyetaduttamam ||4.3||

今日、私によって、その古くから変わらない同じヨーガがあなたに話されました。
なぜなら、あなたは私の帰依者であり友達ですから。これが、まさに深遠な秘密です

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ヴェーダの宇宙観は、「私は、全宇宙創造の原因[param-brahman]で、創られたものではない」ということです。

ギーターでも述べられるので、ギーターは、ヴェーダのエッセンスと言われ、この知識を得ることが、人生で唯一のゴールです。

人は、この知識を得るまで、生死のサムサーラの人生に束縛されています。

ヴェーダの宇宙観は、このゴール達成のため、pravṛtiとnivṛtti、2つの側面の道[mārga]を与えます。

ゴールは、ブランマンである自分自身の知識を得る事です。

どんな知識にも、ある種準備が必要で、自分自身の知識のためには、情緒的成熟、知的成熟の2つが必要です。

知的成熟だけでは不十分で、偉大な科学者も、情緒的には未成熟であり得るます。

彼は、仲間や他者から、自分は全く尊敬されない、認められないなどと感じ、悲みや嘆きを持ち、失望するかもしれません。

一方で、神を認識できる情緒的成熟があっても、知的成長はしていないかもしれません。

ある程度の知的成長を積み上げる必要があり、サンスクリット語の学びは、文法体系が精密なロジックで成り立つので、認識や考えを整理整頓してくれます。

現代では、義務教育が知的成長を構築するのに役立っています。

自分自身で比較的幸せに生きる事ができ、自然に熟考する人である時、ある種の成熟を得るなら、隠退した生き方[サンニャーサ]がヴェーダによって支持されます。

隠退した生き方では、ヴェーダの申し付ける全ての義務から、正式に完全に解放さますから、自分自身の知識を探究に没頭できます。

あるいは、内側の成熟が必要なのであれば、知識を探究しながらカルマ・ヨーガの人生を生きる事もできます。

これが、全ヴェーダのエッセンスです。

「ヨーガ」という言葉がギーターで使われる時、それはニャーナ・ヨーガとカルマ・ヨーガを意味します。

両方が、自分自身の知識の探究を含み、この知識が、王家と聖者に受け継がれますが、人々はそれを必ずしも受け継ぎません。

この詩の解説で「この知識は、考えが分散する人が受け継ぐなら、あたかも失われてしまう[दुर्बलान् 2/3 अजितेन्द्रियान् 2/3 प्राप्य 0 नष्टम् 2/1 योगम् 2/1 ]」とシャンカラは言います。

内側の強さが無い人達[durbalāḥ]、考えが分散し、まとまりがない人達[ajitendriyāḥ]の手に届き、このヨーガも分散され、まるで失われています。

この詩で「その知識(ヨーガ)のみ[saḥ evā]」と言う時、この知識はいつも存在し、この宇宙創造がはじまる前から古く[purātanaḥ]、ずっと変わらない2つの側面の知識であることをクリシュナは知っていました。

2つの側面の知識とは、ブランマンの知識と現れた知識(サッテャムとミッテャー)ですから、それは永遠に絶えません。

ソフトウェアはビル・ゲイツに構想された、新しい物と思われるかもしれませんが、実際、その知識はいつもありました。

昔、太陽が、銀河系と呼ばれる何千億個もの星の大集団の一員で、その中を秒速200km以上ものスピードで移動していることを人は知りませんでしたが、それを知らずとも、地球は太陽の周りを常に回っていました。

知られていようといまいと、これが事実で、それはいつも事実として留まります。

同じように、この知識は、決して新しくない古いもの[purātanaḥ]です。

常に知識は、ものごとのあるがままと同じく真実です。

アートマーが永遠でなのであれば、アートマーの知識も永遠で、新しいものは創られません。

クリシュナによって、はじめて伝授されたこの知識[yogaḥ]は、終わることのない永遠[purātanaḥ]です。

◎2つのタイプの永遠

毎回の宇宙創造[kalpa]ごとにやって来る秩序(終わることのない永遠[pravaha-nityatva])と、時空をも超えた意識(絶対的な永遠[pāramārthika-nityatva])があります。

宇宙創造の度に現れ続けるヴェーダの知識も、時間に限られていますから、絶対的な永遠[pāramārthika-nityatva]ではなく、終わることのない永遠[pravaha-nityatva]です。

この終わることのない永遠の知識[pravaha-nityatva]が、もっと前にアルジュナに与えられなかったのは、彼がこの知識を求めなかったからです。

「それは今日あなたに話されました[te adya  proktaḥ]」と言うように、クリシュナはアルジュナに1日で教えました。

しかし実際、詩の形で話すのは、クリシュナではなくヴャーサです。

マハーバーラタの一部として、ヴャーサが、クリシュナのメッセージを詩の形で入れました。

ヴェーダについて十分な知識を持つヴャーサは、ギーターにそのエッセンスを公開するための資質を与えられていました。

私達はヴェーダを学んでいるのであり、これは、クリシュナ哲学ではありませんし、カントや、ショーペンハウアーや、ヘーゲルのような哲学者でもありません。

ただ、リシたちから伝授されてきた知識[ārṣa-vidyā]、ヴェーダがあるだけです。

「どうして、もっと早くこれを教えてくれなかったんだ。眠れない夜を随分過ごしたのに!」

と言うかもしれませんが、人は、眠れない夜を過ごさない限り、アドバイスが持つ知恵を見る事ができないかもしれません。

アルジュナ達兄弟は、12年間森に過ごし、クリシュナから学ぶ絶好のチャンスがありました。

ヴェーダーンタの準備となる占星術など[upaveda]の知識体型をマスターするにも、12年という歳月は必要で、星の配列とも深く関わっています。

アルジュナが、神から手渡された追放の月日は、クリシュナから教えを得るのにぴったりな月日でした。

◎自分自身の知識はもっとも偉大な秘密

そのような月日があったのにも関わらず、アルジュナに教えなかった理由について、クリシュナは「この特別な知識は、秘伝である[rahasyam]、おまけに、最も究極である[uttamam]」と、この詩で言いました。

全ての秘密の中でも最も究極の秘密は、自分自身の知識ですから、ウパニシャッドの言葉も「秘伝」という意味が使われます。

2つの種類の秘密があり、1つは、そういう文化や時代にいない、そこに興味がないという、知覚から離れている、距離のある秘密です。

もう1つの秘密は、見聞きでき、知り得るのに、私が理解しないので、秘密[rahasya]で残ります。

ヴェーダーンタが無いなら、自分自身の真実が秘密で残りますし、ヴェーダーンタが手に入っても、聞く人の準備が無いために秘密のままで残りますから、ヴェーダーンタ・ラハッシャは両方です。

私は役立たずで限りのある人、条件付けされている人にとって、ヴェーダーンタで明かされるリアリティーは理解し難いのです。

条件付けされた人が、「あなたはサッテャ・ニャーナ・アナンタで、サルヴァカーラナで、プールナです」と言われるなら、その人は完全に混乱し「私がサッテャなのに、自分は役立たずと感じてしまうのは、自分が思ってるより、私は役立たずな人間なんだ」と別の問題をもつでしょう。

例え、ヴェーダを学んだ人も、日々詠唱している人も、真実を明かす言葉は手に入りますが、その知識ではありませんから、最も偉大な秘密[uttama-rahasyam]のままで残ります。

◎この知識は、知りたい人だけに与えられるべき

クリシュナが、この知識を教えていたとしても、アルジュナとって何も意味を持たなかったでしょう。

この知識は、知りたい人だけに与えられるべきだからです。

人が、問題があることを認識しない限り、解決を与えても無意味なのです。

「私が問題だ」と認識した時、はじめてその解決に関心を持つのです。

アルジュナは、この知識を耳にする多くの機会がありましたが、彼は、技術を手に入れる事、達成、そして王子の栄光に関心がありました。

12年の追放の間でさえ、ミサイルを維持し、王国を取り戻すための様々な技術を磨きました。

それだけに専心すること[ekā-gratā]は、彼にとって必要な事でしたから、この知識を探求する時間もなければ興味もありませんでした。

アルジュナは、今戦場の場面で、成し遂げてきた業績は、ただ単に破壊を招くだけ、先生や親族への思いやりの気持ちも重なり、彼はもはや戦いたくはありませんでした。

これがまさに、アルジュナの問題で、恐れからではなく、思いやりの気持ちから戦いたくなかったのです。

彼は戦うべきかどうかを、決心しなければなりませんでした。

◎客観的な意見はいつも助けになる

何かを決定する時、その出来事に巻き込まれていない人の意見は助けになります。

アルジュナにとってクリシュナはそのような人でした。

今まで追い求めてきたことや、勝つということの無意味さを見て、アルジュナは、勝利の意味ではなく、人生の意味を知りたかったのです。

人生そのものの疑問、それがアルジュナの疑問のエッセンスでした。

アルジュナが、疑問を投げかけたので、クリシュナは知識を与えることができました。

グルからシッシャへの教えの伝統が保たれ、ヴェーダーンタは、近年になるまでほとんど聞かれることはありませんでした。

この100年、ヴェーダーンタがより広く手に入るようになりました。

現在出回る多くの翻訳が、ヴェーダーンタについて、さらなる混乱の結果を招く、間違った概念を含んでいます。

ヴェーダーンタは、一般的な話題ではありませんから、誤解してしまったり、人々がそこに価値を持てないないなどの理由から遠ざけられていました。

実際、既に間違った教えを聞いている人より、まっさらな人の方がヴェーダーンタを聞くにはより良いのです。

自分の理解を棄て去らねばならないことは、簡単ではないばかりか、とても苦しいことかもしれませんから。

◎ヴェーダーンタは、皆に教えられるべきか?

意図して、ヴェーダーンタを人々から遠ざけるなら、こういった人生のゴールがあることすら知られません。

しかし、聞きたい理由が、論文を発表するため、TTCで教えるためだったりと、アルジュナのように、人生に行き詰まり、本当に知りたがっている人でないかもしれませんから、この知識を持つ人は、ヴェーダーンタを大衆に話すことについての葛藤があるかもしれません。

この様な時、タミル語で「法螺貝を吹く」という適切な言葉があります。

インドで夏至の1か月前は、祈りや、儀式に重要な時期で、干ばつや、病気などの妨げを遠ざけるために、皆にとって多くの繁栄があるように、毎朝4時から5時の間に法螺貝を吹くように指名される人がいます。

その人は、1年中困らないだけのお米を頂き、沢山の村に法螺貝を吹くことを頼まれますから、法螺貝を吹く時間が4時よりもっと前になってしまうのです。

同様に、ヴェーダーンタの先生は、知識の夜明けより、法螺貝が少し早目に吹かれるかもしれまん。

教えるには早熟だと、考えに葛藤がありながらも「ただ法螺貝を吹くだけ」なのです。

さもなければ、この知識を持つ人は、ある場所に静かに座り、教えを頼みに来た人だけに話さなければなりません。

準備ができているか否かを気にせず、誰も彼もに知識を与えるより、本当であれば、それがなされるべきことなのです。

なぜなら、この知識は他の知識とは違いますから。

これは、最も深遠な秘密[uttama-rahasyaṃ]ですから、求める人に与えられることが一番良いことです。

クリシュナが、アルジュナからこの知識を遠ざけていたのは、それを求めていなかったからです。

「しかし、なぜ、それを教えるのに今日を選んだのですか?」というアルジュナの質問を予測し、クリシュナは言います。

「あなたは私の生徒だと言い、教えるように私に頼んだからです。」

師弟関係が結ばれたとて、二人の友情は失われたりしません。

「帰依者[bhaktaḥ]だけでなく、私の友達[sakhā]でもある」と、アルジュナは二重に祝福されました。

クリシュナは、先生になりましたが、アルジュナの友達として話し続けることができたのです。

クリシュナが「あなたは私の友達」と言う時は、イーシュワラとしてではなく、ミスター クリシュナとして話します。

クリシュナが「あなたは私の帰依者」と言う時は、イーシュワラとして、同時にグルとして話しています。

次の詩でアルジュナは、多くの人の疑いを晴らすために質問をします。

クリシュナ神としての幾つもの伝説があることをアルジュナは知っていました。

クリシュナが、バガヴァーン ヴィシュヌ自身であると聞いたことがありました。

アルジュナは、クリシュナ自身からそれを直接聞きたかったのです。

シャンカラは解説の中で、このアルジュナの質問は、神としてのクリシュナを認識しない人々の疑いを、ただ取り除くためだと言います。