श्रीभगवानुवाच ।
असंशयं महाबाहो मनो दुर्निग्रहं चलम् ।
अभ्यासेन तु कौन्तेय वैराग्येन च गृह्यते ॥६.३५॥
śrībhagavānuvāca |
asaṃśayaṃ mahābāho mano durnigrahaṃ calam |
abhyāsena tu kaunteya vairāgyena ca gṛhyate ||6.35||
シュリーバガヴァーンは言いました
強靭な腕の持ち主よ!動揺した考えは、間違いなく、とてもコントロールしがたいものです
しかし、クンティーの息子よ!繰り返しの練習と客観的な見方によって、それは支配されるのです
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クリシュナは「おお、強靭な腕の持ち主[mahābāho]」とアルジュナに呼びかけますが、強靭さは、考えのコントロールを含みます。
考えは落ち着きなく、コントロールが難しいのは、疑う余地がない[asaṃśayaṃ]と言います。
「動揺しても、何の解決にもならないから、動揺するな」と言っても、その人は更に動揺しますから、そのようなアドバイスは、役に立つちません。
「考えは、落ち着か無いもの」という認識があるなら、その戦いに半分勝利しているようなものです。
◎受け入れることが最初のステップ
アルコール中毒者救済協会が提案した回復プログラムの、1stステップは、「私は、アルコールに対し無力だ」と言葉にする事だそうです。
同様に、怒りや動揺の考えに対し、無力であると受け入れるなら、戦いの半分は勝利しています。
考えは動揺するもの、それは心理学的に重要な事実です。
動揺を取り除こうとするのではなく、考えは動揺するものと、ただ受け入れます。
私の考えだけは特別などと、考えるべきではありません。
思考は、常にクシャニカで1秒たりとも同じではない、これが思考[vRtti]の本質です。
クリシュナは「間違いなく、考えは落ち着きのないもの[cala]」と言います。
風を支配するのと同様に、考えは支配しがたいというアルジュナの意見に、クリシュナは同意しています。
そして、考えは、論理的に説明がつかないと考えるのも正しくありません。
考えは、動揺する独自の原因(背景)があり、動揺する論理があることを受け入れます。
例えば瞑想中、突然''オクラ''という言葉が浮かぶのにも何らかの論理があります。
要点は、ポップアップする考えには、それ自体に論理があるということです。
◎世界に、論理的でないものはない
最初は、筋が通っていないように思えますが、完全に論理があるのです。
論理を見いだせない中に論理を見い出す、つまり、物事には全て背景があると理解します。
それが考えの本質です。
「考えは動揺し、不安定ですから、気にせず放っておきなさい。」と言うこともできますが、ここでは、考えが不安定である時「自分自身が不安定で動揺している」と言うことが問題なのです。
考えと「私」との間に距離を発見することを学ぶことで、繰り返しの練習と、客観的な視野で考えを支配できます。[abhyāsena vairāgyena ca manaḥ gṛhyate]
◎内側の子供をお世話する
クリシュナが、クンティーの息子[kaunteya]と呼ぶのは、アルジュナの考えに未だ子供がいることを仄めかしています。
その子供が、自分自身にお世話されなければなりません。
子供の頃、両親や、先生、大人が、お世話してくれましたが、今度は自分が、内側の子供の世話をするのです。
誰もが、内側に子供を抱えていますから、その子供をお世話します。
「母は私を好きではない。父は私を嫌っている。」など、いつも失望している子供がいて、周囲との関わりの中で、「自分とはこんな人」という自己イメージが出来上がり、子供の私が残り続けます。
いつも泣いている子供が、深い所にいて、その考えが状況と接触しポップアップします。
ヴェーダーンタの勉強は、自分自身を見ること。
今まで私は、状況を変えようとしてきましたが、最初にすべきことが、その子供が出てくる時、自分を見つめることです。
お世話されるべき子供がそのままなら、75歳になっても子供のままです。
クリシュナは、大人のアルジュナが[mahābāho]、その子供[kaunteya]のお世話をするのだと言います。
練習の繰り返し[abhyāsena]と、客観的に見ること[vairāgyena]で、考えが制御される[gṛhyate]と述べ、どのように対処されるのかについて教えました。
ヨーガの練習によって、考えと自分自身の間に距離を発見し、自分自身をあるがままに理解し、自分自身の本質を知ることができます。
あらゆる思考は私ですが、私は思考から自由だと理解します。
この特別な状況を、より深く見ることがabhyāsaです。
「考えは私ですが、私は考えではない」と理解することが、ニディッデャーサナと呼ばれるのです。
◎ジャパの練習
abhyāsaは、ジャパの練習もここでは含みます。
次にどんな思考がポップアップするかは予想できないので、予想できる状況を設定し、考えの働き方を理解するなら、うまく統制できるようになります。
マントラを頭の中で繰り返す鍛錬[japa]は、サンニャーシーでさえ必須です。
◎マントラが役に立つ
どのステージの人もマントラを持ちますし、どの伝統でも、何らかのジャパが見られます。
唯一、次の考えが予想できるのがジャパです。
繰り返すことがジャパで、考えに役割を与え、マントラから考えがずれたら、それに気づき、何度も瞑想の対象に引き戻します。
ここでは、考えをātmāにとどまらせる[ātma-samstha]ために、ātmāが「まるで」瞑想の対象物です。
ジャパ瞑想も、教えを学びながら続けていく瞑想です。
考えの働き方をabhyāsaによって知るのです。
この特別なabhyāsaの中では、注意を逸らすものでさえ瞑想の対象物になります。
考えがどこに行こうと、そこに注意を向けます[yatra yatra mano yāti tattra tattra samādhayaḥ]。
これが熟考で、注意は対象から対象の源である「ātmā」へと移ります。
◎熟考は、事実を理解すること
熟考により、「これは思考で、全てではない。思考が自分自身をまるで染めている」と、思考と自分自身の距離が、とてもはっきりしてきます。
そして、注意を自分自身に向けるなら、それは熟考になります。
自分自身は、考えから自由だという事実を理解すればするほど、考えは純粋に役割になります。
このスペースの発見こそが洞察で、理解そのもの、その理解がリアリティとなります。
これがクリシュナが述べるabhyāsaで、それにより、考えのマスターとなるのです。
◎どうして考えは、さまようのか
考えを、考えそのものに留まらせるという2つ目の方法が、客観的に捉えるということ[vairāgya]です。
考えが彷徨うのは、本当に価値あるものに興味を持てないからです。
留まらせようとしなければ、考えは自然により興味深いもの、「愛するもの」と、「手当てが必要な痛みの対象」2つの場所に向かいます。
痛みはabhyāsa、愛の対象物に関してはvairāgyaによって扱われます。
時間はかかりますが、abhyāsaによって、自分と痛みの間に距離を作り出します。
ここで、vairāgyaが別に述べられているのは、幸せや安全を求める全ての願望の源は、貝殻にコインを見るような上乗せした見方[śobhana-adhyāsa]だからです。
「大きな組織にいれば安心」という様に、世界の様々なものに、ある属性を上乗せし、それらが幸せや安全をもたらしてくれる、あるいは、何かを得て、取るに足る人になろうとします。
◎どうして、他人に受け入れてもらおうとするのか
他者に受け入れられたいのは、まさに自己受容を求めているからで、他者を通じて自己受容をしようとしています。
自分自身は受け入れられる人であると見極めることが、この問題に対処する真の方法です。
自己受容を求める時、何らかの属性を対象物に上乗せし[adhyāsa]、事実以上のものを、与えてくれるとみなしています。
上乗せされるもの[adhyastha]が、ポジティブなものだと思う時、それは、śobhana-adhyāsaと呼ばれます。
この魅惑するもの、夢中にさせるもの、執着は、śobhana-adhyāsaに過ぎません。
◎ヴァイラーギャの意味、客観的に見ること
客観的に見る、あるがままに見ること[vairāgya]で、主観的な上乗せと、対象物の客観的属性が切り離されるなら、その対象物は本来の価値のものに戻ります。
例えば、お金が無いから、私は取るに足らない人というのは、真実ではありません。
お金が無い、ただそれだけのことです。
お金が無いから、物が買えないのも事実で、クレジットカードが使えないというのも事実です。
しかし、「お金が無いから私は取るに足らない」は事実ではなく、それは上乗せ[adhyāsa]です。
「私は取るに足らない」という自己イメージは、とても根本的なもので、成功の固定観念や、生まれ育った環境がもたらす条件付けがあります。
そんな社会では、人の成功はお金だと語られ、「お金が無いなんて恐ろしい」「お金がある人が偉大」といった観念が尊重されます。
金持ちであることが成功者と言うなら、マフィアのドンも、欲深い人も、殺し屋も皆金持ちです。
世界のいくつかの社会は、このような傾向があります。
また、お金がないことが、素晴らしいという思想もあり、路上生活する乞食が高く評価されたりもします。
お金が無くとも人生をおくれるという考え方です。
どちらの傾向も、問題はお金そのものではなく、お金に対する主観的価値が問題なのです。
お金はお金でしかないので、爪楊枝と同様、お金も役に立つ場所では役に立つ、ただそれだけです。
◎上乗せした考えは、思慮深いものではない
それゆえ、お金が問題をもたらす原因と考えることも上乗せ[adhyāsa]です。
社会の中で作り上げられたこの上乗せ[śobhana-adhyāsa]は、お金はお金でしかないと見ることで中和されます。
対象物をあるがままに見ることで、自分自身の中にある冷静さを見い出す、これがヴァイラーギャです。
「願望など持たない」という理想的な考え方を作ろうとしているのでもありません。
上乗せした考え[śobhana-adhyāsa]が中和され、客観的に見ること[vairāgya]で状況を適切に判断します。
◎上乗せした考えを中和する
愛しすぎる人は、愛する対象物が妄想の対象となり、客観的な視点が持てず、問題となります。
更には、支配しようとするので、愛しすぎる人は、全く愛せない人です。
śobhana-adhyāsaの中和は、客観的な価値と、観的な価値観との相違を理解しなければなりません。
シャンカラは、vairāgyaを「見えるもの(この世)と、見えないもの(あの世)両方の限界を繰り返し見る能力」と定義しました。
[ वैराग्यम् 1/1 नाम 0 दृष्ट-अदृष्ट-इष्ट-भोगेषु 7/3 दोष-दर्शन-अभ्यासात् 5/1 वैतृष्ण्यम् 1/1। ]
どんな対象物も、利点[guṇa]と欠点[doṣa]、すなわち制限があることをはっきりと理解します。
例えば、お金は購買力があっても、それが楽しませるのではない、という理解が執着を手放させます。
執着を手放すなら、お金との関係は適切なものになる、それが客観的な関係です。
◎ありのままに見る
物事をジャッジせず、あるがままに見る能力が客観性と呼ばれます。
対象物を見る時、多くの主観の投影があります。
その投影を、投影として扱い、客観的に見ることを繰り返すことがアッビャーサ、対象物の限界を見ることがヴァイラーギャです。
主観的な価値は、環境がもたらす条件付けがあり、簡単に消えたりしませんから、繰り返すことが不可欠です。
◎客観性と主観性
アンティークに見せかける為、わざと錆付かせた銅像を、古代の代物だと思って買うとします。
それが、アンティークではないと気づくなら、喪失感を味わいますが、失うものは、上乗せしていた主観的な価値観だけです。
アンティークに、主観的な価値を置いただけです。
対象物の客観的な価値と、主観的な価値の間にある違いを理解するなら、見方が変わります。
夢の中のストーリーと同様、主観的な価値の領域の中では、どんなこともありえます。
社会がその価格を釣り上げても、私には全く関係ありません。
一方、強迫観念に駆られてしまうコレクターは、それを投資と言い、それを手放しません。
その物への愛着が強烈で売ることが出来ないなら、それはもう投資ではありません。
そのブッディが無くなり、物を客観的に見れるなら、ヴァイラーギャがありえます。
◎ヴァイラーギャとは、物をあるがままの物として知ること
上乗せされた主観的価値が無くなると、対象物はただの対象物です。
対象物の上に乗せられた、実際には存在しない余分な属性[śobhana-adhyāsa]が理解されなければなりません。
「これはアンティークではない(×2)」と言い聞かせたり、自分の考えを統制しようとするのではありません。
あらゆる状況や物には限界があることを、何度も見ることが重要で、この知識が起こるなら、上乗せされた価値は、消えてしまいます。
しかし、お金や権力、他者を受け入れることに関しては、アッビャーサとヴァイラーギャの両方が必要なのです。
その物の価値以上に価値があると、自身で故意に作った間違いなら、一度訂正するだけで客観性があります。
しかし、社会で作り上げられた「成功の概念」、そして「私とは何か?」は、心理学的に根深くこびり付いています。
物や状況には限界があると、上乗せされた価値が落ちるまで、何度も何度も繰り返し、正確に理解することがヴァイラーギャです。
これは、情緒的な成長に他なりません。
ヴァイラーギャがあれば、痛みをもたらす古い失敗や、新しいものにも支配されません。
物事の制限を見ること[doṣa-darśana]で、認識の変革が起こり、考えは更に自由です。
アッビャーサとヴァイラーギャによって考えは制御されます[abhyāsena vairāgyena ca manaḥ gṛhyate]。
瞑想の象物[dhēya]が、ātmāから離れているので、いつも落ち着きのない考えの制御は難しいですが、それでも制御され得ます。
座って瞑想すれば、考えは鎮まると期待するのではなく、クリシュナが言うように、考えに注意を払うのです。