श्रीभगवानुवाच ।
पार्थ नैवेह नामुत्र विनाशस्तस्य विद्यते ।
न हि कल्याणकृत् कश्चिद् दुर्गतिं तात गच्छति ॥६.४०॥
śrībhagavānuvāca |
pārtha naiveha nāmutra vināśastasya vidyate |
na hi kalyāṇakṛt kaścid durgatiṃ tāta gacchati ||6.40||
シュリーバガヴァーンは言いました。
プルターの息子よ。実際に、その人には、この世でもあの世でも駄目になることはありません
なぜなら、私の息子よ、良い行いをした人は、決して悪いゴールにたどり着くことはないのですから
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この詩で議論されている人は、カルマ・マールガにも戻れず、ヨーガ・マールガにも専心できず、両方から外れてしまった人[ubhayavibhraṣṭa]、アルジュナが言う空想上のサンニャーシーですが、実際は、脱落など無いとクリシュナは言います。
目的を果たせなかったサンニャーシーは、この世界[iha]でも、あの世[amutra]でも、駄目になったりしません[vināśaḥ na vidyate]。
なぜなら、努力が不適切[ayati]であっても、シャーストラにシュラッダーを持っているからです。
モークシャに価値を持つなら、人生で失うものなどありません。
この世で、不満を抱いたり、悲しくなることはなく、知識が得られるまで、快適に知識を追い求め続けるサンニャーシーの人生となるでしょう。
その人は、決して破滅することがないと、クリシュナはアルジュナに保障しました。
◎サンニャーシーは、決して、悪い結果に至らない
この詩の破滅[vināśa]は、今まで以上に不利な生まれを得ること意味しますが、そんなことはなく、より素晴らしい生まれがあるとクリシュナは言います。
その人は、良い人生を送ってきた人[kalyāṇakṛt]だからです。
kalyāṇaは、モークシャを意味します。
その人は、サンニャーサの人生を生きて、モークシャに向かって進み、イーシュワラの理解[mokṣa]のため、全てを手放した人です。
慈善活動など良い行いをしてきた人は、望ましくないゴールを得たりしませんが、新しい身体を生み出す蓄積されたカルマは残りますから、生まれ変わり続けます。
しかし、いったんモークシャのため踏み出した人[kalyāṇakṛt]は、今までどんなことをしていようが、既に清算されています。
自分自身に注意を向けなおす[nitya-anitya-vastu-vivkea]時、元に戻ることは決してないのです[kaścit]。
◎アートマーのためだけに、アナートマーを扱う
肉体はan-ātmāですが、それをどう大事に扱うかもan-ātmā、考えを、お金、権力、家族、将来のこと、來世の肉体をどの様に大事に扱うのかもan-ātmāに関することです。
皆、an-ātmāを扱うことしか興味がありません。
しかし実際、an-ātmāを大事に扱うことは、ātmāを大事に扱うためだけにあります。
赤ちゃんを育てる母でさえ、自分自身が愛おしいから、子どものお世話をします。
大事に扱うのは、an-ātmāのためではなく、ātmāのため、その過程でan-ātmāを扱いますが、完全にātmāを無視しています。
「これがあってOK」とは「それがないと駄目」と言っている様なもの、完全に自分自身を見下し続けています。
この、実に不思議なことが「真実を隠してしまうもの[māyā]」です。
自分を見下してきたことに疑問を抱く時、ātmāが扱われます。
自分自身とは何か?という疑問は、皆に起こることではありません。
それが、上手くいくかどうかは別として、ātmāに注意を向け始めた人は、自分の人生を振り返り、私とは、本当に足りていない人なのだろうか?という疑問を抱き、モークシャに一歩踏み出す人[kalyāṇakṛt]です。
kalyāṇaは、「吉兆な」という意味ですから、結婚もkalyāṇaです。
しかし、モークシャが究極のkalyāṇaですから、結婚は、それを得るための手段[sādhaṇa]です。
◎カルマの方向を変える
kalyāṇakṛtと呼ばれる人は、モークシャのために行いがなされるので、確実に前進していきます。
どんな待機状態のカルマも、モークシャのための自己成長に使われ、もはや次の体として現れる機会を持ちません。
モークシャ願望が一番に踊り出た人[kalyāṇakṛt]の全ての流れは変わります。
自由意志、すなわち祈りという組み合わせが圧力を発揮する時、モークシャが満たされる更に大きなチャンスが訪れます。
一方、単に流れに沿うだけなら、蓄えられた全てのカルマが実を結ぶチャンスを持つだけです。
それゆえ、シュラッダーを持つ人にとって、後に実を結ぶためのカルマは後回しにされ、知識を追求するためのカルマが先に現れます。
そして、モークシャを得るなら、後回しにされてきた全てのカルマは、消えてしまいます。
ですから「自分自身は本当に足りていない人なのだろうか?」という疑問は、並大抵ではありません。
行い手を装う人[kartā]そのものが、疑問視され、この質問こそが、その人をkalyāṇakṛtにします。
kalyāṇakṛtが、悪いゴールに辿り着いたりしません。
クリシュナは、アルジュナに、父や息子のような親密な間柄の人に向かって愛情をこめて呼ぶ名前[tāta]と語りかけました。
父親にとって息子は、自分自身と同じ様に愛おしく、息子の姿をした自分自身を守りますから、息子と父親の間に隔たりはありません。
こういう理由で、父と息子はどちらもtātaと呼ばれます。
アルジュナはクリシュナの息子ではありませんが、創造主という意味で父親[janaka]のようなものなのです。
体を作った父親[deha-janaka]であり、智恵を作った父親[vidyā-janaka]です。
先生[ācyārya]である賢者は、智恵という形の完全な生まれ変わりを与えてくれるので「父[tāta]」と呼ばれます。
tātaという言葉は、弟子[śiṣya]と同じように息子にも使われます。
アルジュナは、クリシュナの弟子[śiṣya]ですから、弟子は息子のようなものです。
この詩で「シュラッダーを持つ知識を得ていない人[sanyāsī]は悪い結果にはならない」と教え、その人はどの様になるかを、次の詩から教えます。