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ギーターヨーガ

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【ギーター】第6章42番目の詩

अथवा योगिनामेव कुले भवति धीमताम् ।

एतद्धि दुर्लभतरं लोके जन्म यदीदृशम् ॥६.४२॥

athavā yogināmeva kule bhavati dhīmatām |

etaddhi durlabhataraṃ loke janma yadīdṛśam ||6.42||

もしくは、彼は、賢者、ヨーギーの家庭に生まれます

そのような生まれは、実際に、この世で得ることはとても難しいのです

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自分自身を知りたい人は、悪い運命[durgati]など無いことを見てきました。

モークシャに一歩を踏み出した人は、既にサムサーラから解き放たれるプロセスに取り組み始めたのです。

ātmāの本質について「自分は行い手か?」と、少なくとも疑問を持ち、探求しようとしています。

一般的に、人は、主体[kartā]が経験する、束縛から生じるduḥkhaを避けようとするだけで、主体自体に疑問を抱くことはありません。

ですから、全ての行いは、望ましいことをもたらすことだけが目的です。

この様な生活をサムサーラと呼びます。

◎サムサーラは誰も治療しない病気

サムサーラは病気で、誰もそれを癒そうとはしませんが、主体に目を向け、この主体が何者かを問うならば、幸先の良い望み[śubha-icchā]に取り組み始めたのです。

それは、ātmā-icchāで、モークシャに至るものです。

その人に悪い結末などあり得ないと保証し、更に次の人生も、今まで歩んだ道を辿り、知識の追求を続けるとクリシュナは言いました。

その人の祈り深い生き方が、プンニャを生み出し、知識の追求に役立つ状況を得ます。

死後の世界も好まく、そして、この地上に、知識を得るのに相応しい体[adhikāri-śarīra]、つまり、人間として戻ってきます。

子宮の様に何かを生み出す場所のことをyoniと言い、肉体もyoniと呼ばれます。

天界の体[deva-yoni]、人間の体[manuṣya-yoni]、低い存在[adhaḥ-yoni]、3種類の体があります。

人間の体[manuṣya-yoni]は、地球という惑星、または、それ以外の場所で、自由意志を体験する体を装って現れたものです。

今、議論されている人は、高い教養があり、豊かで、ダルマを重んじる家庭に生まれると41番目の詩で述べられました。

◎ヨーギーの家庭に生まれることがより素晴らしい

続けてクリシュナは、ムムクシュの家庭に生まれることもあると言います。

カルマ・ヨーギーの家庭に生まれるなら、更に素晴らしいチャンスです。

サンニャーシーは家庭を持たないので、この詩のヨーギーは、カルマ・ヨーギーのことです。

十分に教育を受けた人[dhīmat](jñānīまたはmumukṣu)ですから、子供時代から価値の価値を学び、障害など無く探求しますし、未解決な感情も扱える人です。

シャンカラは解説で、父親はヨーギーですが、財産が少ない家庭を取り上げます。

乞食や、貧しい家庭に生まれる可能性がありますが、、父親がカルマ・ヨーギーであれば、十分に教育を受けた人です。

貧しさはpāpaを全て使い果たし、puṇyaがヨーガに働きます。

その人は、プレッシャーなど無く知識の道を選べるので、貧しいカルマ・ヨーギーの家庭に生まれることは、高い教養を持つ裕福な家庭に生まれることより素晴らしいと、シャンカラは述べました。

裕福であることも、貧しいことも、ある種コンプレックスを作り出し得ます。

劣等感と優越感は、扱うべき問題ではありますが、両親がヨーギーなら、貧しい家庭に生まれても、価値構造が健全なので、「私は貧乏」という劣等感を抱きません。

自分自身が貧しい人などとは考えず、むしろ私は祝福された人だと思うのです。

あるがままで、祝福されていると心底感じている両親の元に生まれることは、貧しくても申し分のない生まれです。

ここでのポイントは、貧しくても、両親が正しく健全であることは、より素晴らしいということです。

◎どうして2種類の家庭?

41~42番目の詩で、2種類の家庭が述べられたのは、全てのyoga-bhraṣṭaが、同じ様な家族に生まれるはずが無いからです。

その人の集めたpuṇya-pāpaで、生まれる家族が決まりますが、どこに生まれようと、過去の体験で刷り込んできた記憶や習性[yoga-saṁskāra]があります。

泣いてばかりいる赤ちゃんは、ミュージシャンに、何でも壊してしまう子供は、土木技師になるかもしれません。

これらの習性[saṁskāra]が、今世で現れます。

同じ家庭に生まれても、兄弟でタイプが違うのは、それぞれの習性[saṁskāra]のためです。

これらのsaṁskāraを、違う言葉で表すならprārabdha-karmaです。

ある職業や家柄などを通じて、そのsaṁskāraが現れます。

ダルマに専心する教養ある家庭に生まれるか、カルマ・ヨーギーの家庭に生まれるかは、心の成熟度によります。

yoga-saṁskāraを持ち生まれるので、特別な誕生は重要ではありませんが、子供時代に悪い資質[adharma-saṁskāra]が養われるなら、以前に集めてきたyoga-saṁskāraを超えてしまうこともあります。

 

真剣な知識の追求[yoga-saṁskāra]が、ヨーギーに自然に現れるには、間違った価値観の生き方[adharma]に圧倒されるべきではありません。

ですから、その人が糸口を見い出し、やり残した所から再出発できるよう、適切な環境であることが重要です。

◎探求者は、どこにでも生まれる

自分自身の知識を求める人は、豊かで教養のある家庭、カルマ・ヨーギーの家庭だけではなく、どこにでも生まれ得ます。

ここでは、アルジュナの言うpravrttiにも nivrttiにも留まれず、失敗した人[yoga-bhraṣṭa]について話しています。

アルジュナの心配に答えて、知識の追求の妨げなどなく、整った状況に生まれるとクリシュナは言いました。

一旦、そこに注意を向けたなら、yoga-saṁskāraは決して無くなったりしませんが、adharmaに圧倒されることはあり得ますが、そのことを認識するなら、祈り深い生活によって、それは清算されてしまいます。

adharma-saṁskāraを取り除き続けるなら、yoga-saṁskāraが再び現れます。

父親が真剣に知識の探求をし、母親がいつもその様なことを話している環境なら、実に素晴らしい出発です。

私の母だけでなく、インドの母親は、「それは明日あげるわ」とは決して言わず、「明日、もし起きたらあげるわ」と言います。

「もし起きたら」とは「もし生き延びてたら」ということで、約束はありません。

これが文化で『生き延びたら、また会おう』という態度だけがあります。

つまり、子供の頃から、物事は完全にコントロール出来ないという事実を受け入れるのです。

◎受け入れる態度が大事

コントロールしたい欲求(私が結果を出せる人)から、問題が起こりますが、口にカップを運ぶ瞬間でも、落とす可能性はあります。

つまり、自分ではどうにも出来ない事があると受け入れるなら、人生への態度は健全です。

自分に出来ることをし、何が起きても、受け入れる準備ができています。

子供時代からこの考え方なら、とても素晴らしいスタートです。

最初にクリシュナは、高い教養があり裕福で、価値[dharma]を持つ家族に生まれることは素晴らしいと述べ、次に、十分に知識を備えたカルマ・ヨーギーの両親を持つなら、更に良い生まれだと述べました[durlabhataraṃ]。

十分に知識を備えたヨーギーは、自分がヨーギー、ムムクシュだと知る人で、モークシャは、知識が必要と理解しています。

その様な智恵がある両親の下に生まれる事は、この世ではとても得がたいものですし、両親がヨーギーなら、ヨーガの探求を遮るものなど全くありません。

◎裕福さには、エゴがつきもの

『お金持ちが天国の門をくぐるのは、針の穴をラクダが通るくらい難しい』

このことわざは、謙虚さが無く、お金で何でも解決できるというエゴが問題で、お金持ちが問題なのではありません。