तमुवाच हृषीकेशः प्रहसन्निव भारत ।
tam uvāca hṛṣīkeśaḥ prahasan iva bhārata |
सेनयोरुभयोर्मध्ये विषीदन्तमिदं वचः ॥२.१०॥
senayor ubhayor madhye viṣīdantam idaṃ vacaḥ ||2.10||
サンジャヤが言いました
バーラタ一族の子孫である王(ドゥリタラーシュトラ)よ
両軍の間で悲しみに沈む彼(アルジュナ)にクリシュナはまるで笑うかのように語りました
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サンジャヤの「まるで笑っているよう」という表現には、いくつかの解釈のがあります。
アルジュナが自身の問題の根本に気づき、シッシャになることを請い、完全に委ねるこの瞬間を待っていたため、クリシュナは満足して微笑んだ可能性があります。
また、この知識は、真実を明らかにする祝福に満ちたものだったため、楽しんでいたとも考えられます。
クリシュナは、教えを説くために馬車を静かな場所へは動かさず、戦場の真っ只中に留めました。
これは、真の知識を得るために、特別な時間や場所は必要ないことを示しています。
重要なのは、誰が学び、誰が教えているかです。
クリシュナは、戦場の騒音の中で教えを説くのに必要な平静さを持っていたし、アルジュナは、クリシュナの教えを聞くのに必要な平静さを持っていました。
この対話は、師と弟子の資質が整えば、いかなる状況(場所や時間)であっても、学ぶことが可能であることを示しています。
◎教えのはじまり
クリシュナの教え、シャンカラの解も2章11番から始まります。
クリシュナは「あなたは悲しむ理由でないものを悲しんでいます[aśocyān anvaśocaḥ tvam](2-11)」と言って始まり、「悲しまないように[mā śucaḥ](18-66)」と言い締めくくります。
この最初と最後の言葉が示すように、『ギーター』の教え全体は、悲しみ[śoka]を取り除くこと、さらに言えば悲しみの原因を取り除くことに専念しています。
悲しみとは、あらゆる不平不満、自分自身に関する心配です。
肉体的な痛み自体は悲しみではないが、その痛みについて不平を言ったり、「自分だけが健康でない」と考えることが悲しみとなります。
この自己を中心とした悲しみは、純粋に無知の産物です。
自分自身や世界に関する間違った観念から起こる間違った考えが原因です。
クリシュナの教えは、まさにこの「無知」という根源的な問題に焦点を当てています。
すなわち、悲しみの原因である無知、間違いが完全に取り除かれます。
ギーター・シャーストラは、悲しみを完全に破壊するシャーストラです。
