【ギーター】第2章12~13番目の詩
2017/12/09
न त्वेवाहं जातु नासं न त्वं नेमे जनाधिपाः ।
na tu eva ahaṃ jātu na āsaṃ na tvaṃ na ime janādhipāḥ |
न चैव न भविष्यामः सर्वे वयमतः परम् ॥२.१२॥
na ca eva na bhaviṣyāmaḥ sarve vayam ataḥ param ||2.12||
私も あなたも 王たちも存在しなかったことはない
未来においても 存在しなくなることは決してない[2-12]
–
この詩はギーターの宇宙観における生と死
わたしは唯一無二の存在であることを明かします
–
「私は生まれる人」という観念を
二重否定を使い否定します。
ギーターの宇宙観における生と死において
わたしの誕生というものは無く
わたしは生まれません。
わたしは「まるで」生まれました。
わたしは、現在・過去・未来において
存在し続けます。
–
देह भेद अनुवृत्त्या बहुवचनं न आत्मभेद-अभिप्रायेण
複数形を使っているのは、様々な体のことで
唯一無二のわたしのことではない
と、シャンカラ先生は解説します。
–
様々な媒体[ウパーディ]があり
そして、わたしはたった1つです。
たくさんではありません。
多くの人がいて
様々な媒体[ウパーディ]がありますが
アートマーは時間に捕らわれず
唯一の全体としてある“意識”[チャイタンニャ]です
その意識の中だけに
私の考え、あなたの考えがあります
様々な考え、様々な肉体があると数えますが
“意識”[チット]の立場からではありません
普段見ている物の見方
その観念を落としていきます。
「わたしは永遠です」と言うなら
「長い寿命があるのがわたし」と考えますが
わたしは時間に捕らわれないもの
ですから、寿命はありません。
時間に捕らわれないので
わたしが存在しなかったこと
存在しなくなる事がないのです
時間に捕らわれないものに
嘆く事等出来ず悲しむ理由はありません
悲しみは、アートマーとアナートマー
それを識別できない為にあります。
悲しみとは、リアリティを認識できない為に
わたしの上に投影された何かなのです。
アナートマーが変化の対象です。
アートマーと、アナートマー
これらを正しく理解するなら
どちらも悲しむものではありません。
देहिनोऽस्मिन् यथा देहे कौमारं यौवनं जरा ।
dehino asmin yathā dehe kaumāraṃ yauvanaṃ jarā |
तथा देहान्तरप्राप्तिर्धीरस्तत्र न मुह्यति ॥२.१३॥
tathā dehāntaraprāptir dhīras tatra na muhyati ||2.13||
この体に住む人[ジーヴァ]は
子供時代、青年期、老年期がある様に
また別の体を得ますが
それに賢者は悲しみません[2-13]
–
アートマーは、いつも同じで
決して変わりません
アルジュナの理解の為
この詩で例が与えられました
子供時代が終わる時
その体に住む人はいますか?
もしそこにいなければ年老いた人が
若い頃の体験を語ることはできません
記憶を装ったわたしが、そこにいます
肉体や、声の変化はあったとして
記憶を支えるアートマーは
いつも同じで、揺らぎません。
あらゆる状態は訪れては去りますが
アートマーは、同じなままです
あらゆる状態は滅びますが
アートマーは、決して滅びません。
肉体は、7年ごとに大きな変化を
経験すると言われていますが
アートマーは、同じなままです。
生まれてからの3年間を覚えていない
それと同じ様に、過去世も覚えていません
今世に専念できる様、見事に隠されています
知られていようが、いまいが
アートマーは、同じなままです。
わたし[アートマー]の視点から見ると
自らが消滅するという
悲しみの理由はありません。
個人[ジーヴァ]の視点から見ても
いつかいなくなってしまうと
思い違いに陥る理由がありますか?
身体を持とうと、持つまいと
ジーヴァは在り続けます。
新しい体を手に入れること
それはジーヴァとして
より良い新しい出発を与えてくれるのです。