न त्वेवाहं जातु नासं न त्वं नेमे जनाधिपाः ।
na tu eva ahaṃ jātu na āsaṃ na tvaṃ na ime janādhipāḥ |
न चैव न भविष्यामः सर्वे वयमतः परम् ॥२.१२॥
na ca eva na bhaviṣyāmaḥ sarve vayam ataḥ param ||2.12||
私も あなたも 王たちも存在しなかったことはない
未来においても 存在しなくなることは決してない[2-12]
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クリシュナは、肉体の死が悲しみの原因であるというアルジュナの疑問に対し、ātmāが永遠であることに焦点を当てます。
クリシュナは、自分自身もアルジュナも、そして戦場の全ての兵士たちも「常に存在していた」と説きます。
これは、単に過去に存在していただけでなく、未来においても「決して存在しなくなる時がない」ことを意味します。
◎ギーターの宇宙観における生と死
私たちは通常、「生まれた」「死ぬだろう」という観念を持っていますが、ギーターの宇宙観では、ātmāは生まれません。
「私が生まれた」という観念は否定され、クリシュナが「誕生した」とされるのは、特定の名前と形が現れたことを指すに過ぎません。
彼は以前から存在しており、「まるで」生まれたかのように見えるだけです。
同様に、私たちが「後に存在しなくなるだろう」と考えることも真実ではありません。
個人という観念[jīvatva]は、知識を得た時に消えてしまいますが、ātmā、意識は常に存在し続けます。
クリシュナは、「私がいなかった時も、あなたがいなかった時も、そして他の誰もいなかった時も決してない。同様に、私たちが存在しなくなる時も決してない」と強調します。
◎アートマーは、数多くあるのではない
詩で使われる複数形(「私たち」「王様たち」)は、個々の肉体の現れ[upādhi]に関してで、ātmāに違いがあるわけではありません。
シャンカラも、ここで複数形が使われているのは「多くの異なる体」に関してで、ātmāが数多くあるのではないとを強調しています。
アートマーは多数ではなく、唯一です。
それは時間から自由で[nitya]、形も質も持たない唯一の存在です。
アートマーは時間の基盤であり、ゆえに永遠です。
多くの体は存在しますが、アートマーは時間にとらわれず、唯一の全体、意識であり、その意識の中に多様な考えや体が現れます。
◎アートマーは不変
クリシュナは、アルジュナにātmāが永遠であるという新しい概念を植え付けるのではなく、「ātmāは時間にとらわれている」という誤った観念を取り除こうとしています。
アートマーは時間にとらわれないものであるため、悲しみの対象ではありません[aśoca]。
変化の対象であるのはan-ātmāだけで、an-ātmāは本質的に変化するので、それに不変を期待して嘆くことは無意味です。
ですから、ātmāもan-ātmāも、どちらも悲しむべきものではありません。
ātmāとan-ātmāの本質を正しく理解することが、悲しみから解放されるために必要なのです。
この理解を助けるために、クリシュナは例を用いてātmāが不変であることを示しました。