न त्वेवाहं जातु नासं न त्वं नेमे जनाधिपाः ।
na tu eva ahaṃ jātu na āsaṃ na tvaṃ na ime janādhipāḥ |
न चैव न भविष्यामः सर्वे वयमतः परम् ॥२.१२॥
na ca eva na bhaviṣyāmaḥ sarve vayam ataḥ param ||2.12||
私も あなたも 王たちも存在しなかったことはない
未来においても 存在しなくなることは決してない[2-12]
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この詩はギーターの宇宙観における生と死、 わたしは唯一無二の存在であることを明かします。
アヴァターラであるクリシュナだけが存在するのでなく、ここにいる王様やアルジュナも同様、いつも存在していたと、そして未来も存在すると言われました。
前半のヴェーダに属する占星術では、「私は行い手」という観念がある人に教えますから、私は生まれ、歳を取る人ということに同意しますし、クリシュナの生誕祭もお祝いもします。
しかし、ギーターの宇宙観では、生と死において、わたしの誕生というものはありません。
「私は生まれる人」という観念、名前や形[ナーマ・ルーパ]を二重否定を使い否定します。
わたしは「まるで」生まれました。
わたしは、現在・過去・未来において 存在し続けます。
個人の観念[ジーヴァ・トヴァ]という無知が取り除かれたとしても、アートマーとしていつも存在します。
複数形を使うのは、個体のことで 唯一無二のわたしのことではない、とシャンカラは解説します。[ देह भेद अनुवृत्त्या बहुवचनं न आत्मभेद-अभिप्रायेण]
様々な媒体[ウパーディ]があり、わたしは唯一です。
多くの人、すなわち媒体[ウパーディ]はありますが、 アートマーは時間に捕らわれず、 唯一の全体として在る“意識”[チャイタンニャ]です。
その意識の中に私の考え、あなたの考えがあります。
様々な肉体、考えがあると数えますが “意識”[チット]の立場からではありません。
普段見ている物の見方、観念を落としていきます。
「わたしは永遠です」とは 「長い寿命があるのがわたし」と考えます。
しかし、わたしは時間に捕らわれないものですから、寿命などありません。
時間に捕らわれないので、 わたしが存在しなかったこと、存在しなくなる事がないのです。
時間に捕らわれないものに嘆くことなどなく、悲しむ理由はありません。
悲しみは、アートマーとア・ナートマーを識別できない為にあります。
悲しみとは、リアリティを認識できない為に、わたしの上に投影された何かなのです。
ア・ナートマーが変化の対象です。
アートマーと、アナートマー これらを正しく理解するなら、どちらも悲しむものではありません。
देहिनोऽस्मिन् यथा देहे कौमारं यौवनं जरा ।
dehino asmin yathā dehe kaumāraṃ yauvanaṃ jarā |
तथा देहान्तरप्राप्तिर्धीरस्तत्र न मुह्यति ॥२.१३॥
tathā dehāntaraprāptir dhīras tatra na muhyati ||2.13||
この体に住む人[ジーヴァ]は 子供時代、青年期、老年期がある様に
また別の体を得ますが それに賢者は悲しみません[2-13]
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アートマーは、いつも同じで、決して変わりません。
子供時代が終わる時、その体に住む人[デーヒン]はいますか?
そこにがいなければ、年老いた人が、若し日の体験を語ることはできません。
記憶を装ったわたしが、そこにいます。
肉体や、声は変化したとしても、 記憶を支えるアートマーは、いつも同じで揺らぎません。
あらゆる状態は訪れては去りますが、アートマーはずっと同じです。
あらゆる状態は滅びますが、アートマーは決して滅びません。
肉体は、7年ごとに変化すると言われていますが、 アートマーはずっと同じです。
生後3年間を覚えていないのと同様に、過去世も覚えていません。
今世に専念できる様、見事に隠されています。
知られていようが、いまいがアートマーはずっと同じです。
わたし[アートマー]の視点から見ると、自らが消滅するという悲しみの理由はありません。
個人[ジーヴァ]の視点から見ても、身体があろうと、なかろうとジーヴァは在り続けます。
新しい体を手に入れることは、ジーヴァとして、より良い新しい出発を与えてくれるのです。