मात्रास्पर्शास्तु कौन्तेय शीतोष्णसुखदुःखदाः ।
mātrāsparśās tu kaunteya śīta-uṣṇa-sukha-duḥkhadāḥ |
आगमापायिनोऽनित्यास्तांस्तितिक्षस्व भारत ॥२.१४॥
āgamāpāyino anityās tān titikṣasva bhārata ||2.14||
クンティの息子よ 感覚と世界の接触は、 寒暑、苦楽を引き起こし
来ては去る性質で不変ではない。それらを理解して受け入れよ、バラタの子孫よ[2-14]
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クリシュナは、感覚器官が捉える 世界について話しました。
感覚器官[マートラー]は 世界と接触を持ちます。
これらの接触[スパルシャー]は 寒暑、苦楽などの経験を与えます。
私が、心地良い晴れの日を望むとしても 同時に雨を求め祈る人々がいます。
苦楽を起こすのは、反応であり、全ては感覚器官と世界の接触です。
肉体は物理的な世界に属し、世界は、何かの肉体的な痛みを引き起こします。
物理的な痛みは 受け入れられ、癒されるべきものですが、 悲しみは、自分で作り上げているものです。
クリシュナは「世界との接触を避けなさい」と言わず、「受け入れ、理解しなさい [ティティクシャッスヴァ]」と言いました。
全ての状況を起こるままに ユーモアのセンスで難なく切り抜けなさいと。
リアリティの種類の混乱から起こる ある種の「かたまり」があります。
考え・感覚器官・肉体は、類するリアリティで、アートマーとは、別のリアリティの種類です。
悲しいという時、まるで考えと同じリアリティの秩序に、アートマーが属しているかの様に、悲しみの中にアートマーを巻き込みます。
アートマーがアナートマーに、 沢山の中の1つにされてしまいます。
アートマーは、それらどの様なものでもなく、悲しみは、アートマーがなくてはあり得ません。
悲しみがある時は、アートマーが何かしら巻き込まれています。
無知がアートマーに悲しみを負わします。
世界とは何か?その状況とは何か?
それを理解する、客観的な人に 悲しむ理由はありません[アショーチャ]。
行動を起こす状況がただあるだけです。
यं हि न व्यथयन्त्येते पुरुषं पुरुषर्षभ ।
yaṃ hi na vyathayanti ete puruṣaṃ puruṣarṣabha |
समदुःखसुखं धीरं सोऽमृतत्वाय कल्पते ॥२.१५॥
samaduḥkhasukhaṃ dhīraṃ saḥ amṛtatvāya kalpate ||2.15||
人間の中で一際目立つ人よ 苦楽を同じに見て それに影響されず
見極める能力がある人は 自由を得るに値します[2-15]
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アルジュナは、雄牛[ルシャバ]だと呼ばれました。
雄牛の背中のコブは、一際目立ちます。
アルジュナは人間[プルシャ]の中でも 高貴で、高く評価された人でした。
アートマーの知識を持つ人[ディーラ]は 対極のものに同じに留まります。
苦楽がその人に影響を及ぼしません。
死、すなわち移り変わること[アムルタットヴァ] から自由です。
11番目の詩~15番目の詩で 知識を得るに相応しい人[アディカーリー]が クリシュナによって語られました。