千葉県立 青葉の森公園近くの小さなヨガ教室

ギーターヨーガ

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【ギーター】第2章25~26番目の詩

अव्यक्तोऽयमचिन्त्योऽयमविकार्योऽयमुच्यते ।

avyakto'yamacintyo'yamavikāryo'yamucyate |

तस्मादेवं विदित्वैनं नानुशोचितुमर्हसि ॥२.२५॥

tasmādevaṃ viditvainaṃ nānuśocitumarhasi ||2.25||

この自分自身は、現れず 考えで捉えられるものでもなく 変化にさらされない、と言われます

ですからあなたはそれを知る事で 悲しむはずがありません[25]

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全ての現れているもの[ヴャクタ]は 知覚の対象物を表しています。

知覚の対象ではないものが 現れていないもの[アッヴャクタ]です。

アートマーはこの詩でアッヴャクタとして述べられます。

アートマーは知覚の対象物でもなければ、考えの対象物ではない[アチンテャ]ので、推理の対象物でもありえません。

アートマーは自分自身で明らかです。

考えの対象物ではない[アチンテャ]というのは、 アートマーが理解できないものという意味ではなく、推理や知覚の対象物ではないということです。

なぜならアートマー無しに、推理や推測が不可能ですから。

また、アートマーは牛乳の様に変化し、ヨーグルトになる様なものでもありません。

どんな変化も請け負わない[ア・ヴィックリヤ] ので、アートマーは、以前幸せで、今は悲しいと言う事は出来ません。

しかし、人は識別がない為、アートマーは変化にさらされるものとして捉えます。

それは属性を持ない[ア・ヴャクタ]ので、どんな変化を請け負う事は出来ません。

サット・チット・アーナンダは、アートマーの属性だと言うなら サットはアサットに、チットはアチットに、アーナンダはドゥッカになぜならないのでしょう?

サット・チット・アーナンダは、その様な属性ではなく、変化は起こり得ません。

サット・チット・アーナンダは アートマーをほのめかすもの[ラクシャナ]で、その意味を明らかにする言葉です。

ほのめかされる意味は、アートマーのまさに本質[スヴァルーパ]です。

属性や性質は、物の本質ではないのです。

チットはサットであり、アーナンダでもあります。

何か性質を持ち合わせたものではなく、アートマーは全ての属性から自由です。

実在こそがサットですから、サットはアートマーが持つ質の1つではありません。

同様にチットは意識で、これは存在[サット]です。

アートマーは限りがなく、アーナンダという言葉もその本質[スヴァルーパ]をほのめかしています。

アートマーをあるがままに、サット・チット・アーナンダとして知り、今までのアートマーに関する全ての観念が捨て去られます。

アルジュナは、ビーシュマとドローナが死ぬので 悲しんでいる、とクリシュナに言いました。

実際は誰も死なず、どんな悲しみも持つ資格がない、とクリシュナは答えました。

人々は去り続けますが、違った形で還ってきます。

その様に説明をされてもアルジュナはこんな風に言うでしょう。

「アートマーが永遠だとしても、アートマーに触れる事は出来ないし、サット・チット・アーナンダと話を楽しむことも出来ませんが、ビーシュマとは出来ます。 ビーシュマの形をしたサット・チット・アーナンダを恋しく思うのであって、私はアートマーの為に悲しんでいるのではありません。」

アルジュナの悲しみは、アナートマーの為です。

その悲しみは無益だとクリシュナは言いました。

アナートマーは、常に生まれて、いつも死んでいきます。

生まれるという事は、以前の形を手放し 以前の形を手放すことを、私達は死と呼びます。

誕生そのものが死をほのめかし、全ての誕生が死をほのめかしています。

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अथ चैनं नित्यजातं नित्यं वा मन्यसे मृतम् ।

atha cainaṃ nityajātaṃ nityaṃ vā manyase mṛtam |

तथापि त्वं महाबाहो नैवं शोचितुमर्हसि ॥२.२६॥

tathāpi tvaṃ mahābāho naivaṃ śocitumarhasi ||2.26||

アートマーを生まれ続け死に続けるものと思うにしても

強力な武器の使い手、アルジュナよ!

この様にアートマーの為に あなたは悲しまないはずです

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ここでクリシュナが指摘しているのは、アートマーがいつも生まれてくるなら、なぜ死を恐れるのか?

ビーシュマや他の全ての人々は、あなたが悲しむに相応しい新しい死などなく、死んでいるものは死に続ける。

あなたはただ事実を見るだけです。

この様に、誕生や死に関して悲しむ余地がありません。

アサットはあなたによって止められません。

時間に捕らわれているものを、どの様に止めるのでしょう?

いつも生まれていると考える事は、どんな悲しみも引き起こしません。

もし彼らがいつも去っているのなら、いつも去るものは、いつも去り、新しく去るというのはありません。

新しく去らないなら、悲しむべき事とは何でしょうか?

生まれるものには死があり、死んでいるものには誕生があります。

この意味においてさえ 悲しみの余地はないとクリシュナは言いました。