【ギーター】第2章25~26番目の詩
2018/07/07
अव्यक्तोऽयमचिन्त्योऽयमविकार्योऽयमुच्यते ।
avyakto’yamacintyo’yamavikāryo’yamucyate |
तस्मादेवं विदित्वैनं नानुशोचितुमर्हसि ॥२.२५॥
tasmādevaṃ viditvainaṃ nānuśocitumarhasi ||2.25||
この自分自身は、現れず
考えで捉えられるものでもなく
変化にさらされない、と言われます
ですからあなたはそれを知る事で
悲しむはずがありません[25]
–
全ての現れているもの[ヴャクタ]は
知覚の対象物を表しています。
知覚の対象ではないものが
現れていないもの[アッヴャクタ]です。
アートマーはこの詩でアッヴャクタとして述べられます。
アートマーは知覚の対象物でもなければ
考えの対象物ではない[アチンテャ]ので
推理の対象物でもありえません。
アートマーは自分自身で明らかです。
考えの対象物ではない[アチンテャ]というのは
アートマーが理解できないものという意味ではなく
推理や知覚の対象物ではないということです。
なぜならアートマーなしに、推理や推測が不可能ですから。
また、アートマーは牛乳の様に変化し
ヨーグルトになる様なものでもありません。
どんな変化も請け負いません[アヴィックリヤ]
どんな変化もないので
アートマーが以前幸せで、今は悲しいと言う事は出来ません。
しかし、人は識別がない為
アートマーは変化にさらされるものとして捉えます。
しかし、それは属性を持たない[アッヴャクタ]ので
どんな変化を請け負う事は出来ません。
サット・チット・アーナンダは、アートマーの属性だと言うなら
サットはアサットに、チットはアチットに、アーナンダはドゥッカに
なぜならないのでしょう?
サット・チット・アーナンダは
その様な属性ではなく、変化は起こり得ません。
サット・チット・アーナンダは
アートマーをほのめかすもの[ラクシャナ]で
その意味を明らかにする言葉です。
ほのめかされる意味は、アートマーのまさに本質[スヴァルーパ]です。
属性や性質は、物の本質ではないのです。
チットはサットであり、アーナンダでもあります。
何か性質を持ち合わせたものではなく
アートマーは全ての属性から自由です。
実在こそがサットですから
サットは、アートマーが持つ質の1つではありません。
同様にチットは意識で、これは存在[サット]です。
アートマーは限りがなく、アーナンダという言葉も
その本質[スヴァルーパ]をほのめかしています。
アートマーをあるがままに
サット・チット・アーナンダとして知り
今までのアートマーに関する全ての観念が捨て去られます。
アルジュナはビーシュマとドローナが死ぬので
悲しんでいるのだとクリシュナに言いました。
実際は誰も死なず、どんな悲しみも持つ資格がない
とクリシュナは答えました。
人々は去り続けますが、違った形で還ってきます。
その様に説明をされてもアルジュナは言うでしょう。
「アートマーが永遠だとしても
私は、アートマーに触れる事は出来ないし
サット・チット・アーナンダと話を楽しむことも出来ませんが
ビーシュマとは出来ます。
ビーシュマの形をしたサット・チット・アーナンダを恋しく思うのであって
私はアートマーの為に悲しんでいるのではありません。」
アルジュナの悲しみは、アナートマーの為です。
その悲しみは無益だとクリシュナは言いました。
アナートマーは、常に生まれて、いつも死んでいきます。
生まれるという事は、以前の形を手放し
以前の形を手放すことを、私達は死と呼びます。
誕生そのものが死をほのめかし
全ての誕生が死をほのめかしています。
そしてクリシュナはこの議論を起こしました。
अथ चैनं नित्यजातं नित्यं वा मन्यसे मृतम् ।
atha cainaṃ nityajātaṃ nityaṃ vā manyase mṛtam |
तथापि त्वं महाबाहो नैवं शोचितुमर्हसि ॥२.२६॥
tathāpi tvaṃ mahābāho naivaṃ śocitumarhasi ||2.26||
アートマーの事を生まれ続け
死に続けるものと思うにしても
強力な武器の使い手、アルジュナよ!
この様にアートマーの為に
あなたは悲しまないはずです
–
ここでクリシュナが指摘しているのは
アートマーがいつも生まれてくるなら
なぜ死を恐れるのか?
ビーシュマや他の全ての人々は
あなたが悲しむに相応しい新しい死などなく
死んでいるものは死に続ける。
あなたはただ事実を見るだけです。
この様に、誕生や死に関して悲しむ余地がありません。
アサットはあなたによって止められません。
時間に捕らわれているものを
どの様に止めるのでしょう?
いつも生まれていると考える事は
どんな悲しみも引き起こしません。
もし彼らがいつも去っているのなら
いつも去るものは、いつも去り、新しく去るというのはありません。
新しく去らないなら、悲しむべき事とは何でしょうか?
生まれるものには死があり
死んでいるものには誕生があります。
この意味においてさえ
悲しみの余地はないとクリシュナは言いました。