अव्यक्तोऽयमचिन्त्योऽयमविकार्योऽयमुच्यते ।
avyakto'yamacintyo'yamavikāryo'yamucyate |
तस्मादेवं विदित्वैनं नानुशोचितुमर्हसि ॥२.२५॥
tasmādevaṃ viditvainaṃ nānuśocitumarhasi ||2.25||
この自分自身は、現れず、考えで捉えられるものでもなく、変化にさらされない、と言われます
ですから、あなたはそれを知る事で悲しむはずがありません[25]
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感覚器官の対象物など、全ての現れているものがヴャクタで、知覚の対象ではないもの、現れていないものがア・ヴャクタです。
アートマーはこの詩でア・ヴャクタとして述べられます。
アートマーは知覚の対象物でもなければ、考えの対象物ではない[ア・チンテャ]ので、推理の対象物でもあり得ません。
考えの対象物ではない[ア・チンテャ]は、 アートマーが理解出来ないものという意味ではなく、推理や知覚の対象物ではないということです。
なぜならアートマー無しに、推理や推測は不可能ですから。
また、アートマーは牛乳の様に変化を請け負い、ヨーグルトになる様なものでもありません。
どんな変化も請け負わない[ア・ヴィックリヤ] ので、アートマーは、以前幸せで、今は悲しいと言う事は出来ません。
しかし、人は識別がない為、アートマーは変化にさらされるものとして捉えます。
◎アートマーには属性がない
それは属性を持ない[ア・ヴャクタ]ので、どんな変化を請け負う事は出来ません。
サット・チット・アーナンダは、アートマーの属性ではないので、サットはアサットに、チットはアチットに、アーナンダはドゥッカにはなり得ません。
サット・チット・アーナンダは、属性ではないので、変化は起こり得ません。
それは アートマーを仄めかすもの[ラクシャナ]で、その意味を明らかにする言葉です。
仄めかされる意味は、アートマーのまさに本質[スヴァルーパ]です。
属性や性質は、ものの本質ではないのです。
チットはサットであり、アーナンダでもあります。
属性や性質を持ち合わせたものではなく、アートマーは全ての属性から自由です。
実在こそがサットですから、サットはアートマーが持つ質の1つではありません。
同様にチットは意識で、これが存在[サット]です。
アートマーは限りがなく、アーナンダという言葉もその本質[スヴァルーパ]を仄めかしています。
アートマーをあるがままに、サット・チット・アーナンダとして知り、今までのアートマーに関する全ての観念が捨て去られます。
アルジュナは「ビーシュマとドローナが死ぬので 悲しい」とクリシュナに言いました。
実際は、誰も死にませんから、どんな悲しみも持つ理由がない、とクリシュナは答えました。
人々は去り続けますが、違った形で還ってきます。
その様に説明をされてもアルジュナはこんな風に言うでしょう。
「アートマーが永遠だとしても、アートマーに触れる事は出来ないし、サット・チット・アーナンダと話し合えたり出来ませんが、ビーシュマとは出来ます。 ビーシュマの形をしたサット・チット・アーナンダを恋しく思うのであって、私はアートマーの為に悲しんでいるのではありません。」
アルジュナの悲しみは、アナートマーの為です。
全体の理解が無い時の、混乱から起こる悲しみですから、それは無益だとクリシュナは言いました。
アナートマーは、常に生まれて、いつも死んでいきます。
生まれるとは、以前の形を手放すことを意味し、 以前の形を手放すことを死と呼ばれます。
誕生そのものが死をほのめかし、全ての誕生が死をほのめかしています。