2018-08-20

【ギーター】第2章29番目の詩①

2018/08/18

आश्चर्यवत् पश्यति कश्चिदेनमाश्चर्यवद्वदति तथैव चान्यः ।

āścaryavat paśyati kaścidenamāścaryavadvadati tathaiva cānyaḥ |

आश्चर्यवच्चैनमन्यः शृणोति श्रुत्वाप्येनं वेद न चैव कश्चित् ॥२.२९॥

āścaryavaccainamanyaḥ śṛṇoti śrutvāpyenaṃ veda na caiva kaścit ||2.29||

ある人は自分自身を驚きと見ます。

同様にある人は、それを驚きとして話します。

ある人は驚きとして聞きます。

更にある人は、この自分自身について聞いた後でさえ

それを全く理解しません。[29]

わたしは、ブラフマンであると

はっきり知るべきですが

それは簡単ではありません。

アートマーとアナートマーの間の

混乱の原因は万人共通ですから

全ての人が慰められるべきです。

運命を悲むのは、アルジュナだけではない

その理解が、皆仲間であることを感じさせてくれます。

アートマーは、いつも驚き[アーシュチャルヤヴァト]です。

アートマーを理解する時、それは驚きで

理解しない時も、何故それを理解できるのかが驚きです。

この驚きが幾つかの形になります。

アートマーは、今までに全く見られなかったもの

グルによって教えられ

突然、衝撃的に現れます。

生徒は理解し、アートマーを驚きとして見ます。[アーシュチャルヤヴァト パッシャティ] 

今や、その人は自分自身が驚きであると見るのですから。

わたしが全体で、全てがわたしに集約され

全てがわたしであると、突然発見するなら

それは明らかに驚きでしょう。

最初、このリアリティは不可能に見えて

そのうち漠然とした可能性になり

最後には、それがリアルであり、真実。

わたしによって経験されるものは、わたし私自身です。

わたしは全ての音であり、わたしは全ての色や形

わたしは全ての匂いで、匂いの源であり

わたし全ての味で、味の源です。

わたしは食べ物であるたけでなく

食べ物を食べる人もわたしです。

そうでなければ、わたしは食べられてしまいます。

わたしはヴェーダの読む人だけでなく

わたしはヴェーダの作者でもあります。

わたしがヴェーダという道具で理解されるものです。

わたしこそが全宇宙の創造主、ブランマージです。

ずっと私は、ダルマの秩序という

法則の統括者の下にいると思っていました。

カルパと呼ばれる、長い期間のそれぞれに

そのような統括者がいたと言われています。

スーリヤ神の息子、ヴィヴァスヴァタ・マヌの法則の下に

私はずっといましたが

今、わたしはアートマーを理解し

「わたしはマヌである[アハン マヌフ]」と言い

過去にいた人は、全てわたしで

将来生まれるであろう人も全てわたしです。

今ここにあるもの全てがわたしです。

全創造物の真実だなんて、決して信じて疑わなかったのですから

これは実に驚きです。

明らかに真実は逆さまであるようです。

アートマーのこの宇宙観[ダルシャナ]

この知識がまさに驚くべき事[アーシュチャルヤ]です。

このアートマーの説明を聞く[シュラヴァナ]時

それはもう1つの驚きです。

あなたが全ての真実[サッテャ]で

全ての幸せの源、全ての人の幸せ[パラム・ブラフマ]であると聞く事は驚きです。

世界の全ての創造物は、その源アーナンダの海

アーナンダの山から、幸せの小さな欠片を得ています。

その源があなたです。

先生がアートマーについて話す時

誰も彼もがその驚きを表現します。

[アーシュチャルヤヴァト アンニャハ エーナム ヴァダティ]

アートマーは、始めから終わりまで驚きです!

サット・チット・アーナンダで

全く変化を請け負うことなく、この全世界を創りました。

アートマーについて話していること自体

あり得ないことで、それ自体驚きです。

どんな変化も経験せず、こんな物という名前や形もなく

限りがないものが、まるで限りがあるように現れる事は不思議です。

全てのナーマ・ルーパはブラフマンに他なりません。

そしてブラフマンはあなた、アートマーです。

先生がこの様に話し、更に話しきってしまう事も、もう1つの驚きです!

先生の話を聞き、生徒もアートマーの不思議さを話します。

ですから、アートマーについての全ての事が驚きです。

遂には、それを聞いてでさえ理解出来ない事驚きです。

[シュルトヴァー アピ エーナム ヴェーダ ナ チャ エーヴァ カシュチト]

マニアックなジョークが理解されない様に

人はアートマーを全く理解しません。

ジーヴァとして現れるブランマン

そのジーヴァの束縛、そして束縛からの自由[モークシャ]

これらは全て、大きなジョーク。

実際今迄に例のない最大のジョークに他なりません。

ですからどんな事を分析しても分かる様に

人生そのものがジョークです。

考えをよくよく分析してみると

考えなどありません。

考えは、どこから始まり、どこで終わりますか?

あなたが世界で直面する事は

全てあなたの考えに他なりません。

あなたにとって世界があるというのは

あなたが考えを持っているからです。

考えはどこまでリアルなのか?

意識はどこで終わるのか?

どこからその考えは始まるのか?

と自分に問うなら、ただ意識があることに気が付くでしょう。

考えなどありません。

考えの始まりも、考えの形もありません。

あるのはただ意識です。

これがアートマーの美しさで、ジョークでもあります。

全てが絶え間ないジョークです。

結婚はジョークです。子供たちはそれに続くジョークです。

子供の誕生自体がジョークで、誕生の苦しみもまたジョークです。

こんな風に連続的なジョークがあり

その中にたくさんの悲しみがあります。

オリジナルのジョークが理解されなければ

他のジョークも理解できないでしょう。

オリジナルのジョークが、ジョークとして理解されるべきです。

その時、全てがジョークとなります。

最後のジョークは、ヴェーダーンタを聞いた後に

必ず、こんな風に言う人がいることです。

「私は全く理解できませんでしたし、全く何も見えませんでした。」

誰かが、この教えに対して感謝を表すと

理解できない人は、その人を非難して

心を奪われた、独自の考えを持っていないとか

意味の無い言葉の海で、自分を見失っていると言うかもしれません。

理解した方の人も、批判を聞いて疑い始めるかもしれません。

アートマーについての教えを聞き

理解出来ないことは、もう1つの不思議です。

不思議な事なので、理解する事は簡単ではありません。

わずかな人だけが、その様な不思議を理解します。

ですからアートマーの話を聞き、理解出来ない事は

少しも不思議ではありません。

理解されるべきことは、自分自身のことですから

理解できないことが不思議だと、捉えることも出来ます。

話されている事は、ただ自分自身についてで

自身で明らかな事実についてだけです。

私達はこのアートマーをいつも体験しています。

アートマーによってのみ、私達は世界を経験します。

世界の全てが、アートマーの様ではありません。

アートマーはアーナンダとして

満ちている[プールナ]と発見する喜びの瞬間、明らかです。

しかし、私達は全体であることを理解しません。

それももう1つの不思議です。

[シュルットヴァー アピ エーナム ヴェーダ ナ チャ エーヴァ カスチトゥ]

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