आश्चर्यवत् पश्यति कश्चिदेनमाश्चर्यवद्वदति तथैव चान्यः ।
āścaryavat paśyati kaścidenamāścaryavadvadati tathaiva cānyaḥ |
आश्चर्यवच्चैनमन्यः शृणोति श्रुत्वाप्येनं वेद न चैव कश्चित् ॥२.२९॥
āścaryavaccainamanyaḥ śṛṇoti śrutvāpyenaṃ veda na caiva kaścit ||2.29||
ある人は自分自身を驚きと見て、同様にある人は、それを驚きとして話します。
ある人は驚きとして聞き、更にある人は、この自分自身について聞いた後でさえ、それを全く理解しません。[29]
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「私がブランマンである」という真実は、知るべき事ですが、それは簡単ではありません。
アルジュナだけでなく、アートマーとアナートマーの混乱は、万人共通なので、皆仲間であることを感じさせてくれます。
◎アートマーの不思議
アートマーは、いつも驚き[アーシュチャルヤヴァト]です。
アートマーを理解する時驚きで、理解しない時も驚き、何故それを理解できるのかも驚き、この驚きが幾つかの形になります。
アートマーは、グルに教えられ、今までに全く見られなかったものが、突然、衝撃的に現れます。
生徒は理解し、今や、その人は自分自身が驚きであると見ます。
「私が全体で、全てが私に集約され、全てが私である」と、突然発見するなら、それは明らかに驚きです。
最初、このリアリティは不可能に見え、そのうち漠然とした可能性になり、最後には、それが真実です。
私によって経験されるものは、自分自身です。
私は、全ての音であり、全ての色や形、全ての匂いで、匂いの源、全ての味で、味の源です。
私は食べ物であるたけでなく、食べ物を食べる人も私、そうでなければ、私は食べられてしまいます。
私は、ヴェーダの読む人だけでなく、ヴェーダの作者でもあり、私がヴェーダという道具で理解されるものです。
私こそが全宇宙の創造主[ブランマージ]です。
今までは、ダルマの秩序という、法則の統括者の下にいると思っていました。
カルパと呼ばれる、長い期間のそれぞれに統括者がいて、現在は、スーリヤ神の息子[ヴィヴァスヴァタ・マヌ]の法則の下に、私はずっといました。
しかし今、私はアートマーを理解し、「私はマヌである[アハン マヌフ]」と言い、過去にいた人は、全て私で、将来生まれるであろう人も全て私です。
今ここにあるもの全てが私です。
全創造物の真実だなんて、決して信じて疑わなかったのですから、これは実に驚きです。
明らかに真実は逆さまであるようです。
アートマーのこの宇宙観[ダルシャナ]、この知識がまさに驚くべき事[アーシュチャルヤ]です。
このアートマーの説明を聞く[シュラヴァナ]時、それはもう1つの驚きです。
私が全ての真実[サッテャ]で、全ての幸せの源、全ての人の幸せ[パラム・ブラフマ]であると聞く事は驚きです。
世界の全ての創造物は、その源アーナンダの海、アーナンダの山から、幸せの小さな欠片を得ています。
その源が私です。
先生がアートマーについて話す時、誰も彼もがその驚きを表現します。
アートマーは、始めから終わりまで驚きです!
サット・チット・アーナンダで、全く変化を請け負うことなく、この全世界を創りました。
アートマーについて話していること自体、あり得ないことで、それ自体驚きです。
どんな変化も経験せず、こんな物という名前や形もなく、限りがないものが、まるで限りがあるように現れる事は驚きです。
全てのナーマ・ルーパはブランマンに他ならず、そしてブランマンは私[アートマー]です。
先生が、この様に話しきってしまう事も驚きです!
先生の話を聞き、生徒もアートマーの不思議さを話しますから、アートマーについての全ての事が驚きです。
遂には、それを聞いてでさえ理解出来ないことも驚きです。
マニアックなジョークが理解されない様に、人はアートマーを全く理解しません。
個人として現れるブランマン、その個の束縛からの自由[モークシャ]、これらは全て、大きなジョークです。
実際、今迄に例のない最大のジョークに他なりません。
ですから、どんな事を分析しても分かる様に、人生そのものがジョークです。
◎人生は、まさに理解しにくいジョークのよう
考えを分析するなら、始まりも終わりもなく、意識があることに気が付きます。
世界で直面する事は、全て私の考えで、考えが「あり」、世界が「あり」ます。
「ある」のは、ただ意識です。
これがアートマーの美しさで、最大のジョークでもあります。
その最大のジョークの中に、結婚や、子供の誕生などの連続的なジョークがあり、その中にたくさんの悲しみがあります。
オリジナルのジョークが、ジョークとして理解されるなら、その時、全てがジョークとなります。
ヴェーダーンタを聞いた後、必ずこんな風に言う人がいます。
「私は全く理解できませんでしたし、全く何も見えませんでした。」
誰かが、この教えに対して感謝を表すと、理解できない人は、その人を非難し「心を奪われてしまったのだ!独自の考えを持っていない!」などと言うかもしれません。
理解した人も、批判を聞き、疑い始めるかもしれません。
アートマーについての教えを理解出来ないことは、もう1つの不思議です。
わずかな人だけが、その不思議を理解しますから、アートマーの話を聞き、理解出来ない事は、少しも不思議ではありません。
話されている事は、ただ自分自身について、自身で明らかな事実についてだけです。
既に私は自由ですから、このアートマーを常に経験しています。
アートマーがあってこそ、私は世界を経験できます。
世界のどんなものも、アートマーのようではありません。
アートマーは、アーナンダとして、満ちている[プールナ]と発見する喜びの瞬間、明らかですが、全体であることを理解しません。
それも、もう1つの不思議です。
◎理解における難しさ
「私」とは、微積分学などの、ある程度の知的な準備、鋭い洞察力が必要なのではなく、言われたことを、シンプルに理解するだけです。
理解できないのは、ある物事を理解するような、物の知識ではないからです。
全てが五感や考え[プラマーナ]で理解されますが、プラマーナを使う私は、プラマーナでは、理解出来ません。
この理解は「決して否定されない」自己の知識、それが全体の知識です。
全ての属性から自由である全体、それを自分自身だと理解します。
全ての属性が、私に頼ってあります。
知るべきことは、明らかです。
微積分学の様な専門的な知識は要りません。
微積文学を学ぶ為には、「1+1=2」からはじめ、理解する為に、歳月が必要ですが、アートマーは、とてもシンプルです。
自分以外の物や、状況を求めてきたが、それには限界があるという、人生経験だけが必要です。
私が常に探してきた答えが、見つからなかったことも事実、束の間の喜びの瞬間があったことも事実です。
色んな経験など要らず、この2つの事実が、アートマーを理解する為に分析すべきことです。
起きている状態、夢を見ている状態、熟睡の状態を知るなら、十分なデーターとなります。
熟睡状態は、起きている状態を引き下げることが分かるだけで十分です。
誰かが、私の宇宙観[ウパデーシャ]を向上させるために必要なことが、知る為の道具[プラマーナ]と、先生[アーチャーリヤ]が必要です。
そして、この宇宙観[ウパデーシャ]、理解が起こるはずなのです。
目があるなら、色や形が映る様に、教えと、アートマーがあるなら、知識は自動的に起こり、障害などありません。
しかし、それでも理解が起こらないかもしれません。
理解しないことが、この詩で不思議と描写されます。
クリシュナは、理解する事は驚き、そして理解しない事はもっと驚きだと述べます。
◎アートマーを知る人は驚き
アーシュチャルヤヴァトは「まるで不思議」、接尾語[ヴァト]は「まるで」という意味です。
多くの探求者の中で、たった1人が真実を理解するかもしれません。
アートマーを知る人、それを直接理解する人は不思議です。
なぜなら、その人は、全てをひっくり返さなければならなかったのですから。
考え方や、追及などにおいて、私達は、踏みならされた道に従います。
自分を役立たずだと思い、常に自分自身を何とかしようと努力します。
自分自身は、サムサーリーだと考え、サムサーリーがより良くある為に、心身共に向上出来るよう、様々な方法を探します。
自身の強みとして「独自性」や「ユニークさ」を挙げる方もいますが、本当に独創性な人は、自分自身を疑問に思う人です。
その人は、「私はサムサーリーだろうか?」と自身に問いかけます。
サムサーリーであると思い込むなら、誰もが辿る道を歩みますし、自分はサムサーリーかと問う人は、山を登る水の様に、全ての過程をひっくり返します。
山を登って流れる水は、本当に驚き[アーシュチャルヤ]ですから、皆が、水が山を登るのを見る為に集まるでしょう。
丘の上へ水を送るのに、多くの馬力が必要である様に、アルタ・カーマを求めてきた人が、この自分探しに至るまでには、慈悲が必ず必要です。
神の力、あるいは慈悲です。
そしてもし、その人が真実を発見するなら、明らかにそれは驚くべき人です。
◎アートマーのことを話す人も不思議
知る人はアーシュチャルヤ、それを話す人もアーシュチャルヤです。
「私は悲しみに圧倒されている」と誰かが言う時、真実を知る人は、どんな悲しみも問題も全く見ないので、それについて話す事は出来ません。
”問題などない”と言う人が、それを話し、悲しみがある人に、真剣に答えることも不思議です。
なぜクリシュナは「悲しみの理由などない[アショーチャーン アンヴァショーチャハ トヴァム]」と教え始めたのでしょうか?
それは、話す余地を与えるためです。
クリシュナが「私も、あなたも、皆アーナンダ」と言っていたなら、アルジュナは、何も話すことは出来ません。
自分は悲しいという人に「いいえ、あなたはアーナンダ」と言うのは、真実ですが、話す隙間を全く与えないのです。
”悲しむに値しない”と言うには、証明が必要です。
クリシュナの言葉が真実であることを証明する為に、教えが17章あります。
「あなたはアーナンダです」と言うなら、アルジュナは、それを受け入れるしかないことを、クリシュナは知っていました。
ですから、クリシュナは、まるで問題があるかのように話し、そして、それを「まるで」解決したのです。
言葉で述べられないことが述べられ、言葉で捉えられないことが、言葉で紹介されています。
これは本当に不思議[アーシュチャルヤ]です。
実用主義の人に、「自分を学んでいる」などと言えば、間違いなくおかしな人と思われるでしょう。
自分自身とは、言葉にできないもので、それを聞こうとする、76億人の1人が不思議なのです。
その人は、自分自身の知識が大切だと考え、他者はそれをくだらないと考えます。
自分自身を学ぶため、何年もの時間を費やす人は、時間を無駄にしていると思われ、「その時間があるなら、子供が2人作れるよ!」と、彼らは言うでしょう。
この不思議、驚きは、多くの側面があり、どんな風に見ようともそれは驚きです。
アートマーを見ることが出来る人は驚きで、アートマーを見る人は、驚きを持って見ていると言う事が出来ます。
教えを聞いても、理解しない人々がいることは、少しも驚きではありません。