2019-03-25

【ギーター】第2章42~43番目の詩

2019/03/16

यामिमां पुष्पितां वाचं प्रवदन्त्यविपश्चितः ।
वेदवादरताः पार्थ नान्यदस्तीति वादिनः॥२.४२॥

yāmimāṃ puṣpitāṃ vācaṃ pravadantyavipaścitaḥ |
vedavādaratāḥ pārtha nānyadastīti vādinaḥ||2.42||

プルターの息子よ!ヴェーダの言葉に夢中になる人々

見極める能力のない人々は

それ以外には何もないと主張し

これらの華々しい言葉を口にします[2-42]

कामात्मानः स्वर्गपरा जन्मकर्मफलप्रदाम् ।
क्रियाविशेषबहुलां भोगैश्वर्यगतिं प्रति ॥२.४३॥

kāmātmānaḥ svargaparā janmakarmaphalapradām |
kriyāviśeṣabahulāṃ bhogaiśvaryagatiṃ prati ||2.43||

最高のゴールとして、喜びと権力を得る

天国への熱望で一杯の人々(華々しい言葉)は

善い生まれを行いの結果としてもたらす

沢山の特別な儀式について話します。[2-43]

はっきり見る人々は、ヴィパッシュチトと呼ばれ、アヴィパッシュチトは反対にはっきりと見ない人々を意味します。彼らはヴャヴァサーヤートミカー・ブッディを持っていません。見るかもしれないけれども、はっきりとは見ない人々や、全く見ない人々がいます。クリシュナがここで語っているのは、見るけれども、はっきりと見ない人々、つまりヴェーダの真実を学び、信じているけれども、アートマーニャーナと呼ばれる最も重要な教えを見逃す人について話しています。死後の魂の存在が、ヴェーダに述べられているので彼らはそれを信じます。様々な結果を成し遂げる為に、ヴェーダで述べられている様々な儀式の効果を、彼らは信じており、天国やより善い誕生などの結果についても信じています。彼らは特別な望ましい結果を生み出す為の儀式の可能性を信じています。

ですから彼らは普通の人々ではありません。彼らはシャーストラを学び、その効果を信じる人々なのです。これらの人々は見るけど見ない、という意味でアヴィパッシュチトという言葉をクリシュナは使いました。彼らは聖典を学んでいて、無視されるべきではない人々です。彼らは選ばれた詩を引用する事で裏付けとなる全ての言葉や、幾つかの議論を持っていたので、シャンカラはここで彼らを批判します。彼らは話し、議論し、他の人を説得しようと試みたりもします。ヤーム イマーム プッシュピターム ヴァーチャム プラヴァダンティ。彼らはとても華やかで、よく知られた言葉、プラシッダー ヴァークを使います。花が咲いた時、花以外には何も見えないモクレンの様な木があります。葉や枝もありますが、花で隠れています。これらの人々は花一杯で華やかな木の様に魅力的な言葉で話すので、これらの木の様です。プッシュピターム ヴァーチャム プラヴァダンティ。シャンカラは別の表現も使います。「聞いていて心地よい」という意味のシュルーヤマーナ・ラマニーヤです。あなたがその言葉を聞く時、それらは耳に心地よく、素晴らしいものですが、実際それらは全て度の過ぎた誇大宣伝のようです。エーカー・ブッディを持たず、人生において何を成し遂げるべきか見極めてない人々は、物事をはっきりと見ないので、その様な言葉が使われます。このヴィヴェーカを持たない人々はヴェーダーンタの部分ではなく、結果とその方法を語るヴェーダの部分を楽しみます。彼らはヴェーダ・ヴァーダ・ラターです。

彼らはヴェーダーンタの勉強をするかもしれませんが、それを儀式の為だけに使います。ヴェーダ・ヴァーキャの多くは、あなたが何を得るのか、そしてあなたがそれを得る為に用いるべき手段、サーダナについても、はっきりと述べているので、これらの人々はそれにふけります。子供を得る為や、健康を取り戻す為、何らかの妨げを取り除く為などの儀式があります。これらの入念な儀式が、どの様に為されるべきか述べられています。言い換えると、ヴェーダのカルマ・カーンダにありとあらゆる事に対しての答えがあります。

人は様々なゴールを成し遂げたいと思っているので、これらの全てのセンテンスを信じて何らかのカルマを行う事は結構な事です。けれどもヴェーダ・ヴァーダ・ラターは、カルマ以外には何もないと議論します。カルマをして、これら全ての様々なゴールを成し遂げなければならないと彼らは言います。あなたは無駄にこの人生を費やすべきではないと彼らは言います。勿論私達も同じことを言います。あなたは人生を与えられ、そして私達には、次の人生の事は分かりません。次の人生があるかもしれないし、ないかもしれません。例え次の人生が存在するとしても、あなたは蛙に生まれ、最後には実験の為に実験台の上にいる事になるかもしれません。足は誰かのお皿の上へ、体はある医学大学の解剖学部へ行きます。ですからこの人生だけが私たちが当てに出来る人生なのです。

ヴェーダ・ヴァーダ・ラターは、カルマだけが為されなければならないと言います。彼らにとって最も偉大で得られるもの、モークシャとは天国、スヴァルガなのです。彼らは最も偉大で得られるものは富であると言って、この人生についても話します。言い換えるとゴールは、この世とあの世における100%の成功なのです。これらが彼らの話し方です。彼らは何故この様に話すのでしょうか?

ここで描写された人々は、願望に他ならない人々、カーマートマーナハです。彼らは願望を持っているという訳ではありません。彼らは願望だけによって作られています。違いがあります。彼らにとって天国に行くことが最も崇高なゴールで、彼らはスヴァルガパラです。この様に、彼らにとってここ、地上で満たすべき沢山のゴールがあり、死後は天国が究極のゴールなのです。

カルマの結果はいつも1つの形で、あるいは別の形での誕生、つまりジャンマです。あなたが集めてきた全てのカルマ・パラはこの様に実を結びます。ですから集められたカルマの結果として、よりよい生まれがあると話す人々の華やかな言葉、プッシュピターム ヴァークを、私達は持っています。彼らはジャンマ・カルマ・パラ・プラダーである言葉を話します。「次にあなたは王子に生まれるでしょう。あなたはお金持ちに生まれるでしょう」などといった発言の仕方がこれらの言葉です。クリヤー・ヴィシェーシャ・バフラーは、これらの人々によって話される言葉、ボーガ・アイシュヴァルヤ・ガティム プラティ、つまり喜びや権力を得る為の沢山の様々なカルマを明らかにする言葉を説明する為、クリシュナによって使われた別の形容詞です。ボーガは喜びで、アイシュヴァルヤは権力、統治力です。あなたは自分が感じる無力さを受け入れる事が出来ないので、権力や統治力を欲しがります。そして「次にあなたは、王様に生まれるでしょう」「来生であなたは天界の統治者インドラに生まれるでしょう」といった言葉は全てとても聞き心地の良いものです。人々の心はそれらに夢中になってしまうようです。

この様にクリシュナはここでの彼らの悲しい状況を嘆きました。彼ら自身がこれらの言葉に夢中になってしまうだけでなく、彼らはその信念において強い確信の為に宣教師になり、必ず他の何人かの人々も説得します。彼らの宣教への熱意の本当の理由が、彼らにそれ程確かではないからです。彼らの信念は結局単なる信念なのです。信念とはそこに疑いがある事を意味していて、疑いとはあなたがある種の強さが必要だと言う事を意味しているので、信じる人々は宣教師にならざるをえません。もし1人の人を説教する事が出来たなら、あなたは安全を感じるでしょう。お互いに関係し合っているという強さがあり、お互いに助け合います。それぞれのメンバーが他の全てのメンバーのサポートを得られるように、この様にグループが作られます。

これらの魅惑的な華やかな言葉に我を忘れてしまう人々の考えは、ヴェーダーンタの追求に落ち着きません。その様な言葉に運び去られてしまう考えには、本当の意味での明晰さが起こり得ないですから、人が得なければならない事についてハッキリとしていません。どういう事かというと、あなたがこれらの言葉に我を忘れてしまうことに気付くでしょう。もしその言葉がよく探求されていなければ、それらはとても心地よく魅力的である事が分かるでしょう。ですから識別のない人は、それらの言葉に簡単に心を奪われてしまいます。

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