कर्मण्येवाधिकारस्ते मा फलेषु कदाचन ।
मा कर्मफलहेतुर्भूर्मा ते सङ्गोऽस्त्वकर्मणि ॥२.४७॥
karmaṇyevādhikāraste mā phaleṣu kadācana |
mā karmaphalaheturbhūrmā te saṅgo'stvakarmaṇi ||2.47||
あなたの選択(権利)は行いに関してだけで、決して行いの結果にはありません
行いの結果の起因と考えないように。結果に執着がありませんように[2-47]
-
シャンカラは、聖典で推奨される行い[vaidika-karma]として、この詩で述べられるカルマを説明しますが、私達はどの様な行いも、この見方に当てはめていくことが出来ます。
この詩で、権利があること、選択がadhikāraです。
権利、選択[adhikāra]は、行い[karma]に関してだけで、行いの結果[phala]には無いと述べられました。
聖典で推奨される行い[vaidika-karma]でさえ、選択があります。
人は、カルマをすることが出来るし、する必要はないし、違った方法ですることが出来ますが、動物は、本能に動機つけられていることから、行いの選択はありません。
クリシュナが「行いの結果に、どんな選択もない」と言う時、それはちょっとしたアドバイスではなく、事実、つまり教えであることを理解します。
それは、「水は100℃で沸騰する」という言葉が、アドバイスではなく、事実を述べているのと同じことなのです。
◎カルマヨーガの定義
第2章でカルマヨーガは2つの方法で定義されます。
最初の定義が「考えの偏りの無さ[samatva]がカルマヨーガ(2-48)」、次の定義は「行いに関する思慮分別がカルマヨーガ(2-50)」、これら両方の定義が理解されなければなりません。
同じに見ること[samatva]が、カルマヨーガと呼ばれ、それはこの詩に基づいています。
同じに見ること[samatva]は、「行い自体」でも、「行いの根源(願望)」でも、「行いの結果」でもなく、行いの結果に関する、私の受け取り方のことを述べています。
◎行いは、まさに願望を基にしてある
私達の行いは、本質は何であれ、願望[rāga-dveṣa]を満たすためにあり、それが個人を形作ります。
人はカルマを成し遂げたいのではなく、好ましい結果を成し遂げる為にカルマをしますし、どんな行いが、どの様な結果を生み出すのかを理解しているかのように勘違いします。
私達が何らかの行いの結果を分析するなら、4つにカテゴライズされます。
1.バスに乗る為に道を横断し、バスに乗れた(望んだ結果)
2.バスに乗る為に道を横断するが、バスが来ない(望む以下の結果)
3.バスに乗る為に道を横断したら、友達に会い、友達の車で目的地に行けた(望む以上の結果)
4.バスに乗る為に道を横断し、目が覚めた時は病院にいた(望む反対、思いもよらない結果)
人は全知ではないので、これらの状況全てがあり得ます。
明日何が起こるのか、次に何が起こるのかを知らないのですから、未来の為に準備されている状況は、いつでも驚きです。
次にどんな考えが起こるかも、予測できないのに、それでも未来について語る、これが個人[jīva]の無力さです。
◎ジーヴァの限界
個人(神々も含む)が支配される力は限られています。
神々のリーダー、インドラ神ですら、現れた個ですから、力が発揮できない領域があります。
全知は、全能をも意味します。
神[īśvara]が全知全能なら、世界を創るのに何日も必要せず、必要な事の全ては1つの考え[saṅkalpa]だけです。
全知がある時、何もなされる必要がなく、その考えはパーフェクト!
個人の私でさえ、夢の中や、イマジネーションするだけで世界が広がる様に、全知であるイーシュワラが思った瞬間、
試行錯誤したり、
イーシュワラは、個人の様な無知からの歪められた願望ではなく、何一つ歪められていない願望[satya-saṅkalpa]を持つ人です。
◎行いの結果は予想できない
しかし、個人である私は、力も知識も限られていますから、病気や、ある種の状況を避ける事が出来ません。
物理学者は木から落ちる理由について、毎秒毎秒32フィート加速の引力の法則など全ての論理を理解していますが、法則には逆うことは出来ず、落下します。
誰も落下の法則を避ける事が出来ません。
力と知識に関して、限界があるのが個人なのです。
ですから「人の選択は行いだけにある[karmaṇi eva adhikāraḥ te]」というクリシュナの発言はとても重要です。
私は、行いに選択[adhikāra]を持てますが、結果には選択はありません。
全知ではないので、どのカルマがその結果をもたらし、カルマがどの様に実るのかを知りません。
望む結果を得る為には、正しい時、正しい場所にいなければなりませんが、どれが正しい時と場所か知らず、ただそうしようと試み続けるだけです。
それを『運』が有るとか、無いと言いますが、ヴェーダでは『運』とは言わず、以前のカルマだと表現します。
因果報応が理解されるなら、『運』というものは無く、それは単に過去のカルマに置き換えられます。
正しい時に、正しい場所にいるのはカルマで、間違った場所にいるのもカルマ、それがどんな風に実ったかは知る余地もありません。
私はただ自由意志、つまり選択によってのみ進むことが出来るだけです。
◎自由意思を使うこと
結果は、未知の要因に依存していますから、個人が予測することは不可能です。
車のブレーキがちゃんと働くかは憶測なのと同じ様に、望みが、それ通りに起こるかも憶測でしかありません。
個人には、行いの結果に関する選択が無いので、その限界を認めます。
ここでの限界は、救いようがない事ではありません。
「限界がある」と言うと、ネガティブに思うかもしれませんが、個人の限界を知ることは、より客観的な見方なのです。
限界を理解するなら、samatvaの態度で結果に反応することができるのです。
結果への反応には、二通りあります。
samatvaの態度で、感情に振り回されない、平静な、公平な反応。
あるいは、望むのを得て天狗になったり、または得られないことで自滅的になったりするヨーヨーの様な反応。
このヨーヨー反応は、自分が結果を出せる人であると思う事にあります。
必要なことは、事実を事実として、宇宙の成り立ちとは、こういうものであると客観的に受け入れることです。
◎失敗と感じる原因
健康も、寿命も、知識も、技術にも限りがあり、それを改善することができても、それにも限りがあります。
この事実を理解するなら、自分が行いの結果の作者であるという責任を請け負ったりしません。
ここで話されていることは、yogaでjñānaではありません。
単にこれは経験出来る事、実用的な考え方、atmāやan-atmā、brahmanのリアリティなどと関係がありません。
世界がどういったものであるかを見て、物事の機構の中にある、自身の位置づけを見て、シンプルに世界の中にいる自分を自分自身として見る事です。
この考え方をアルジュナにもたらす為に「行いの結果をもたらす原因ではない様にしなさい[mā karmaphalaheturbhūḥ]。なぜなら、あなたはそうではないですから。」とクリシュナは言いました。
私は行いの作者ですが、結果についての作者ではありません。
この事実から、最も適切な事は、偏りのない考えの在り方[samatva]を持ち、何であれやって来る結果を受けとる事です。
望むものを得ないという事は失敗ではないのです。
それにより私達は賢くなります。
又、結果が期待していたもの以上でも、同じ様に賢くなります。
結果が望み通りでなければ「なんて運命だ」と嘆くかもしれませんが、それでもまたより賢くなります。
いつも得る知恵があり、明らかに学ぶ何かがあります。
私は行いの作者で、結果の作者ではないと知る事、それがsamatvaを作り出します。
実用主義者もsamatvaであり得ますが、それをカルマヨーガにする為に、私達はさらに一歩進みます。
イーシュワラを受け入れない限り、カルマヨーガはありません。
◎カルマヨーガは、イーシュワラの認識が必要
全ての結果は私達が、ダルマの法則、カルマの法則と呼ぶ、ある法則によって処理されます。
例えば腕を持ち上げる時、当然物理的な法則が働き、その他沢山の法則があります。
腕を持ち上げることは意志をも含み、考えがあって腕を持ち上げるのです。
この様に、物理的な体、解剖学上の構造は、物理学上の法則に従いこの大地の上に立ち、物理学上の法則に加え、ある種の生物学上の法則により、この世界に生まれています。
また生理学、心理学上の法則もあります。
こうして私達は、ダルマの法則の中に現れた法則がある事を理解します。
シンプルな行いも、過去のカルマの数々が、私が望む結果に割り込み、影響を与えるかもしれませんが、それが起こるのかどうかを私達は知ることは出来ません。
◎法則の作者を理解すること
カルマとその結果を統制する法則は、何であれカルマの法則で、そのカルマの法則はまた様々な他の法則を含みます。
法則の数々は、私によって発案され作られてはいませんし、それらを作ったのは、もちろん私のお父さんではありません。
その前のお爺さんも皆、それらの法則から生まれています。
皆、法則の為に存在し、同じ法則の為にこの惑星を去りました。
人々に存在をもたらした法則達が、また彼らを引き受け、幸せの為にずっとお世話します。
これらの法則がいつも働き、「特定の人」が作者であるとは考えられない事を知ります。
ですから作者を知る事はもう一歩先に進む事です。
数々の法則の作者が、行いの結果を作り出し、法則そのものが、それを作り出しているのではない事に気付くのです。
もう一歩先に進みイーシュワラを作者として理解するなら、私達はカルマヨーガを始める基礎を持ちます。
これが始めの基礎です。
宇宙の万物は、私によっては創造されていません。
ですから誰であれ、それを創造した者がイーシュワラで、この同じイーシュワラが、行いの結果を与える者です。
毎月現金書留でお金を受けとるとします。
郵便配達の人が、実際にはお金を届け与える人です。
しかし、感謝されなければならない、郵便配達の人以外の誰かがいます。
同じ様に結果は、法則によって作られ、法則自身が他の知的存在によって作られます。
その知的存在ブランマンが創造宇宙、森羅万象に関しイーシュワラと呼ばれています。
イーシュワラが、まさに大君主で、事実上のトップ、時間や空間や何にも限られていないボスなのです。
◎作者の本質
全ての宗教が「イーシュワラは知的要因[nimitta-kāraṇa]」だと言います。
しかしヴェーダだけが、「イーシュワラはまた物質的要因[upādāna-kāraṇa]」でもあると言います。
イーシュワラは「知的要因」と「物質的要因」の両方だと理解する時、「ここにあるもの全てはイーシュワラ」なのです。
ミッテャーがある所には、どこでもサッテャがあります。
そしてサッテャが、ありとあらゆる物にとっての基盤[adhiṣṭhāna]です。
パラメーシュワラ自身が、パラム・ブランマンであり、全知[sarvajña]と全能[sarvaśaktimān]である宇宙創造の知的要因[nimitta-kāraṇa]です。
またそれが、宇宙創造の物質的要因[upādāna-kāraṇa]です。
こうして彼は、結果のメーカーであるだけでなく、まさに法則であり、実際行いの結果そのものです。
物理の法則、心理学の法則、この宇宙にあるその他のいかなる秩序も、イーシュワラの法則であるだけでなく、イーシュワラそのものです。
この偉大なる秩序を理解する時、もう不平を言う理由が私達にはありません。
法則の数々からやって来る、行いの結果の数々は、イーシュワラ、神から離れていませんし、それらはイーシュワラからやって来ます。
単なるsamatvaをカルマヨーガに変えるものは、このイーシュワラの理解です。
イーシュワラを行いの結果を与える者[karmaphala-dātā]と理解し、自分自身はただ行いをする人[karma-kartā]と理解します。
ですから、カルマヨーギーである為に、人はイーシュワラを受け入れなければなりません。
【マーヤーの2つの側面】
①リアリティを覆い隠す働き[āvaraṇaśakti])
②名前や形を現す働き[vikṣepaśakti])
イーシュワラの定義は 「全知[sarvajña]」 「全能[sarvaśaktimān」「行いの実りの数々を与える人[karmaphala-dātā]」 です。
これらの定義は、神が全ての生き物達を創ったと言う時に起こる問題を取り除きます。
◎人間の苦しみの釈明
しかし、なぜ神は、ある人を目が見えない様に作り、他の人は足を不自由に作ったのか ?と、当然のことながら疑問が起こります。
これら全ての答えは、神は創造主であるだけではなく 神は創造された世界でもあると言う事で解消されます。
個人[jīva]と神[parameśvara]は 違ったものではないのです。
個人は、ただ無知ゆえで、そして無知には、始まりがなく、ジーヴァは始まりがありません。
世界に生まれてくるそれぞれの個体で、そのkarmaphalaに適合した肉体を持ちます。
karmaphala-dātāとして 定義されるイーシュワラは、非難するものとなりません。
還って来るものについて誰も責任はありません。
私達は行いを演じる為の能力、自由意志を持ち、何であれ望むことをする事が出来ます。
しかし、結果はいつもイーシュワラである法則に処理されます。
こういった理解が何故必要なのか? ギーターによって定義されている人間の心理にもう少し踏み込む必要があります。
◎望まないものを避けるのも満たすこと
私達の全ての行為は、好き[rāga]と 嫌い[dveṣa]に他ならず、問題もまたrāga-dveṣaに他なりません。
もしrāga-dveṣaが無いなら、熟睡の時の様に問題はないのです。
文化的、民族的、そしてそれ以外のものに基づく 人の振る舞い、行動、反応、偏見の数々は、全て人の好き嫌いにコントロールされています。
例えばガネーシャ神に祈る時、 ガネーシャ好きな甘いお菓子、モーダカを捧げますが、これも私達の好みに基づいています。
私達自身のrāga-dveṣaをバガヴァーンにも負わせます。
ガネーシャはこれが好きで、 シヴァはあれが好きでと私達が言い、統括神を人として扱うのです。
私達は好みなしに誰かを扱う事は出来ませんが、好みは「束縛が無いものであるべき」と言うのがアイデアです。
◎好みは束縛なしであるべき
karmaphala-dātāとしてのイーシュワラの理解が、毎日の生活の中で、私達にイーシュワラを認識させるものです。
人は転んで怪我したり、怪我1つしない事もあり、病気が結末の場合があったり、決して帰って来ない事もあります
これら全てがあり得えます。
1人の帰依者[bhakta]として、私達はイーシュワラが途切れる事なく働いている事を見ます。
◎バクタの考えのありかた
全ての結果が、イーシュワラから来きますから、それをプラサーダとして受け取ります。
私達が、神に甘いお菓子を捧げる時、その甘いお菓子は私達に還ってきます。
祭壇から与えられます。
その還ってきた甘いお菓子が、プラサーダと呼ばれます。
ダイエットをしている人は、甘いお菓子を拒むかもしれませんが、それがティルパティ ヴェンカデーシュワラ(南インドの有名な寺院)からもらった甘いお菓子だと知ったら、その人は拒みません。
イーシュワラからの「御下がり」であると知るなら、甘いお菓子がプラサーダになります。
karmaphalaを恩恵、御下がり[prasāda]に変えるのは、それがイーシュワラから来るものだという、純粋に私達の理解です。
ひとたび、全てがprasādaであるなら、実際、何も不平がありません。
私達はそこから何かを学ぶだけです。
どの様な行いの結果[karmaphala]が来ても、それに対する受け取り方は同じです。
これがクリシュナがkarmaphalaの原因ではない様にと、アルジュナに言っている事なのです。
行いの結果の原因[karmaphala-hetu]は、アルジュナではなくイーシュワラです。
アルジュナは行いを作る原因ですが、その結果を作る原因ではありません。
更にクリシュナは「行いではないものに、執着がありませんように[akarmaṇi saṅgaḥ mā astu]」と言いました。
行いそのものは問題はなく、行いの結果への私達の反応があり、そこに問題があります。
行いではないものとは、行いの恐れを意味しています。
行い自体の恐れではなく、私達が望む結果が来ないという恐れです。
私達は行いを始める前でさえ失敗する事を予想します。
クリシュナは「カルマそのものは、束縛していない」とアルジュナに言いました。
karmaphalaが束縛するのでもありません。
カルマを、まるで束縛であるかの様にするのは、karmaphalaに対する反応なのです。
「行いに愛がありますように」
「プラサーダとして結果が受け取られますように」