2019/12/07
दूरेण ह्यवरं कर्म बुद्धियोगाद्धनञ्जय ।
dūreṇa hyavaraṃ karma buddhiyogāddhanañjaya |
बुद्धौ शरणमन्विच्छ कृपणाः फलहेतवः ॥२.४९॥
buddhau śaraṇamanviccha kṛpaṇāḥ phalahetavaḥ ||2.49||
行いはカルマヨーガよりも、はるかに劣っています
ダナンジャヤよ、ブッディ・ヨーガに救いを求めなさい
ただ、結果の為に行いをする人は、みみっちい人です[2-49]
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好き・嫌い[ラーガ・ドヴェーシャ]の魔力の下に成されている行いは、
適切な考えのあり方と、献身的な態度を持つカルマ・ヨーガとは全く異なります。
その様な行いの結果は、偏見のない考え[サマットヴァ・ブッディ]ではなく、その人の好き・嫌いを持ったままで受け取られます。
この種の行い[カルマ]はブッディ・ヨーガ、つまりカルマ・ヨーガよりはるかに劣っています[アヴァラム]。
ですからクリシュナは「カルマ・ヨーガ・ブッディの中に救いを求めなさい」と言いました。
アンタッカラナシュッディとモークシャの為ではなく
結果だけを目的とした行いをする人々はみみっちい人達[クルパナ]です。
彼らはただ楽しみ[ボーガ]と、権力[アイシュワルヤ]を求めるのです。
彼らは知性[ブッディ]を役立てようとしませんから、そこにはカルマ・ヨーガはなく、彼らを惨めなみみっちい人にします。
みみっちい人とは、お金を持ってはいるけども、彼ら自身の為や他の人の為に、それを使う勇気がない人達です。
みみっちい人は、お金を使う事が出来ません。
「お金が無くなってしまう、無くなってしまう、無くなってしまう」と恐れるからです。
ですから彼らはいつも引退の時期に備え、蓄えて、蓄えて、蓄え続けます。
みみっちい人[クルパナ]は優先順位がハッキリせず、使う勇気がありません。
何の為のお金かについての聡明さが少しもないのです。
このクルパナと言う言葉の意味は、知性[ブッディ]を役立てないという意味に広げられました。
シャンカラはブルハダーランニャコーパニシャドを引用する事でクルパナの言葉の意味を論じます。
यो वा एतदक्षरं गार्ग्यविदित्वास्माल्लोकात्प्रैति स कृपणः
カールギーよ!この「不変のもの」を知る事なしにこの世を去る人はクルパナです。
ブッディは、人間として与えられた見極める力で、人間の出来る最も尊い資産、宝物です。
ですから、その第1の使い方が、自分自身の知識を得る為であるべきです。
誰もがブッディを使う良いチャンスがあるにも関わらず
クルパナはそれを蓄え、あるいは無駄に費やし、その人が授かった最も偉大な富を正しく使わないでいます。
お金に関するクルパナが残した財産は、他者に楽しまれる事が出来ますが
このブッディのクルパナが死んでしまっても、そのブッディは誰も楽しめません。
クルパナはモークシャではなく、小さな結果だけを目的にしている人達で、ただただ欲深さがあります
ですから彼らにはカルマヨーガもなければ、サンニャーサもありません。
ヴェーダの宇宙観に従って、2つのライフスタイルがある事を見てきました。
カルマ・ヨーギー、あるいはサンニャーシーのどちらかです。
クルパナは、カルマ・ヨーギーにならなければなりません。
クリシュナは「カルマ・ヨーガを選びなさい」とアルジュナに言いました。