दूरेण ह्यवरं कर्म बुद्धियोगाद्धनञ्जय ।
dūreṇa hyavaraṃ karma buddhiyogāddhanañjaya |
बुद्धौ शरणमन्विच्छ कृपणाः फलहेतवः ॥२.४९॥
buddhau śaraṇamanviccha kṛpaṇāḥ phalahetavaḥ ||2.49||
行いはカルマヨーガよりも、はるかに劣っています
ダナンジャヤよ、ブッディ・ヨーガに救いを求めなさい
ただ、結果の為に行いをする人は、けちん坊です
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buddhi-yogaは、結果に対して偏見を持たない[samatva]という態度で行動することです。
自分の欲求や嫌悪[rāga-dveṣa]に囚われるなら、この適切な態度を欠くため、buddhi-yogaに比べてはるかに劣ります[avaram]。
このため、クリシュナはアルジュナに、antaḥkaraṇa-śuddhiや、モークシャではなく、結果だけを求める人々は「けちん坊[kṛpaṇaḥ]」であると述べ、カルマ・ヨーガの中に救いを求めるよう言いました。
シャンカラは「けちん坊[kṛpaṇaḥ]」を、お金を持っていても使う勇気がない人、更に知性[buddhi]が与えられているにも関わらず、それを使わない人と定義しています。
お金を持ってはいても、自分自身の為や他者の為に、それを使う勇気がない人達です。
「お金が無くなってしまう、無くなってしまう」と恐れるので、隠退の時期に備え、蓄えて、蓄えて、蓄え続けます。
けちん坊[kṛpaṇaḥ]は、優先順位がハッキリしないため、使う勇気がありません。
何の為のお金かについての聡明さが少しもないのです。
このクルパナと言う言葉の意味は、知性[buddhi]を役立てないという意味に広げられ、bṛhadāraṇyakopaniṣadを引用する事でクルパナの言葉の意味を論じます。
यो वा एतदक्षरं गार्ग्यविदित्वास्माल्लोकात्प्रैति स कृपणः
カールギーよ!この「不変のもの」を知る事なしにこの世を去る人はクルパナです。
彼らは、自分自身の知識を得るために知性を使わず、その最も偉大な富を無駄に費やします。
お金を貯め込んで使わない「けちん坊」が死んだとしても、その残されたお金や財産は、他の人が受け継いだり、使ったりすることができます。
しかし、せっかくの素晴らしい知性や理解力[buddhi]を持っているのに、それを自分自身の本当の理解や成長のために使わない「知性のけちん坊」が死んでしまったら、その人の知性は誰にも受け継がれず、消えてしまいます。
けちん坊は、モークシャではなく小さな結果だけを目的とする人々です。
彼らにはカルマ・ヨーガもサンニャーサもありません。
ヴェーダの教えによれば、人はカルマ・ヨーギーかサンニャーシーのいずれかであるべきであり、どちらでもない人々はけちん坊です。
したがって、バガヴァーンはカルマ・ヨーガを選ぶように説きました。