【ギーター】第2章63番目の詩
2020/10/03
क्रोधात् भवति सम्मोहः सम्मोहात् स्मृतिविभ्रमः ।
krodhāt bhavati sammohaḥ sammohāt smṛti-vibhramaḥ |
स्मृतिभंशाद् बुद्धिनाशो बुद्धिनाशात् प्रणश्यति ॥२.६३॥
smṛti-bhraṃśād buddhi-nāśaḥ buddhināśāt praṇaśyati ||2.63||
怒りから妄想が起こり、妄想から記憶は彷徨い
記憶が失われ、考えが無能になり
考えが無能なら、その人は破壊されます[2-63]
–
私の全ての欲求が、満たされ得る事はなく
欲求を満たす事を妨げる
多くの障害物があります。
この障害物が、怒り[クローダ]の的となります。
この障害物に対し、欲求そのものが歪められます。
欲求の屈折した光が、怒りです。
怒りとは、葡萄からワインを作ろうとして
お酢が出来る様なものです。
—
欲求を満たす期待がないなら、怒りはありません。
例えば、誰かに何かして欲しくて
その人が、それをしなかったとします。
その人が「それをしない人」と
分かっているなら怒りはないですが
「その人がしてくれる」という期待があるので
為されない時、私は怒るのです。
怒りを表に出さなくても、怒りは生まれています。
抱く欲求の強さが、怒りの大きさを決めます。
欲求が満たされても、満たされなくてもどちらでも良し!
という態度なら、怒りはありません。
しかし、欲求への強さが大きければ
満たされない欲求から起こる怒りを
扱う事は簡単ではありません。
欲しいものを邪魔する人がいるなら
邪魔する人への怒りに変わります。
欲求が、思い通りにならなければ
期待に応えないその人は、怒りの的となります。
更には、ある人に、何かして欲しい事があり
第3者の為にされないのであれば
怒りはその第3者に向きます。
この第3者への怒りは
最初の人に対する怒りよりも大きくなります。
全ての欲求を満たしたいという期待は
ただラーガ・ドヴェーシャによってのみあります。
怒りから自由になりたいなら
手に入れたい・避けたい[ラーガ・ドヴェーシャ]が
和らげなければなりません。
ここでの要点は
欲求を手放し、怒りを回避する事ではなく
又、怒りをコントロールすることでもなく
適切な物事の捉え方[ヴィヴェーカ]が
とても重要だと言う事です。
私は、識別の欠如[アヴィヴェーカ]があると認識します。
人は怒りの渦中で、どう振る舞うかを考えたりしません。
怒りが起こるなら、暴言を吐く、蹴る、殴る、大声を出すetc
これらは自動的に起こり、素性により為されます。
コントロールの問題ではありません。
何をすべきか、すべきでないかのヴィヴェーカの欠如によって
怒りから、妄想[サムモーハ]が起こり
記憶の喪失[スムルティ・ヴィッブラマ]が起こります。
ここで、記憶[スムルティ]という言葉は
ヴェーダーンタの学び、ダルマの理解
様々な過去の体験から学んだ事を意味します。
妄想があり、アヴィヴェーカであれば
過去の教育や体験、全ての知恵の記憶[スムルティ]が喪失します。
過去の体験からの知恵[スムルティ]が役に立たないなら
考えは無能[ブッディ・ナーシャ]です。
ブッディは「今、すべきか、そうでないか」を分析出来ません。
妄想[サムモーハ]は、知恵[スムルティ]を忘れさせる
瞬間的な失神の様なものです。
ブッディは、知恵[スムルティ]がある時にだけ役立ちます。
知恵[スムルティ]がないと衝動が圧倒します。
言い換えるなら、ブッディは破壊されます[プラナッシャティ]。
人が人でなくなり、衝動に明け渡せば
動物の様になります。
噛みつき、蹴り、叫び、誰かを傷つけ、自殺さえします。
怒りが現われるまでは、注意深く振る舞えますが
怒りが現われるなら、全ての注意深さは消えます。
望ましい物への瞑想が、こういった問題を作り出すなら
ギーターのメッセージは明らかです。
望ましい物への瞑想の代わりに
内側の自分自身[プラッテャグ・アートマー]に瞑想するのです。