क्रोधात् भवति सम्मोहः सम्मोहात् स्मृतिविभ्रमः ।
krodhāt bhavati sammohaḥ sammohāt smṛti-vibhramaḥ |
स्मृतिभंशाद् बुद्धिनाशो बुद्धिनाशात् प्रणश्यति ॥२.६३॥
smṛti-bhraṃśād buddhi-nāśaḥ buddhināśāt praṇaśyati ||2.63||
怒りから妄想が起こり、妄想から記憶は彷徨い
記憶が失われ、考えが無能になり、考えが無能なら、その人は破壊されます[2-63]
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自分の抱く全ての欲求が、満たされ得る事はなく、欲求を満たす事を妨げる多くの障害物があります。
この障害物が、怒り[クローダ]の的となります。
この障害物に対し、欲求そのものが歪められます。
欲求の屈折した光が、怒りです。
怒りとは、葡萄からワインを作ろうとして、お酢が出来る様なものです。
欲求を満たす期待がないなら、怒りはありません。
例えば、誰かに何かして欲しくて、その人が、それをしなかったとします。
その人が「それをしない人」と分かっているなら怒りはないですが、「その人がしてくれる」という期待があって、それが為されない時、私は怒ります。
怒りを表に出さなくても、怒りは生まれています。
抱く欲求の強さが、怒りの大きさを決めます。
「欲求が満たされても、満たされなくてもどちらでも良し!」という態度なら、怒りはありませんが、欲求への強さが大きければ、満たされない欲求から起こる怒りを扱う事は簡単ではありません。
欲しいものを邪魔する人がいるなら、邪魔する人への怒りに変わります。
欲求が、思い通りにならなければ、期待に応えないその人は、怒りの的となります。
更には、ある人に、何かして欲しい事があり、第三者の為にされないのであれば、怒りはその第三者に向きます。
この第三者への怒りは、最初の人に対する怒りよりも大きくなります。
全ての欲求を満たしたいという期待は、ただラーガ・ドヴェーシャによってのみあります。
怒りから自由になりたいなら、手に入れたい・避けたい[ラーガ・ドヴェーシャ]が和らげなければなりません。
ここでの要点は、欲求を手放し、怒りを回避する事ではなく、又、怒りをコントロールすることでもなく、適切な物事の捉え方[ヴィヴェーカ]が重要だと言うことです。
私は、識別の欠如[ア・ヴィヴェーカ]があると認識します。
人は怒りの渦中で、どう振る舞うかを考えたりしません。
怒りが起こるなら、暴言を吐く、蹴る、殴る、大声を出すなど、これらは自動的に起こり、素性により為されます。
コントロールの問題ではないのです。
何をすべきか、すべきでないかのヴィヴェーカの欠如によって、怒りから、妄想[サムモーハ]が起こり、記憶の喪失[スムルティ・ヴィッブラマ]が起こります。
ここで、記憶[スムルティ]という言葉は、ヴェーダーンタの学び、ダルマの理解、様々な過去の体験から学んだ事を意味します。
妄想があり、ア・ヴィヴェーカであれば、過去の教育や体験、全ての知恵の記憶[スムルティ]が喪失します。
過去の体験からの知恵[スムルティ]が役に立たないなら、考えは無能[ブッディ・ナーシャ]です。
ブッディは「今、すべきか、そうでないか」を分析出来ません。
妄想[サムモーハ]は、知恵[スムルティ]を忘れさせる、瞬間的な失神の様なものです。
ブッディは、知恵[スムルティ]がある時にだけ役立ち、知恵[スムルティ]がないと衝動が圧倒します。
言い換えるなら、ブッディは破壊されます[プラナッシャティ]。
人が人でなくなり、衝動に明け渡せば、動物の様になります。
噛みつき、蹴り、叫び、誰かを傷つけ、自殺さえします。
怒りが現われるまでは、注意深く振る舞えますが、怒りが現われるなら、全ての注意深さは消えます。
望ましい物への瞑想が、こういった問題を作り出すなら、ギーターのメッセージは明らかです。
望ましい物への瞑想の代わりに、内側の自分自身[プラッテャグ・アートマー]に瞑想するのです。