या निशा सर्वभूतानां तस्यां जागर्ति संयमी ।
yā niśā sarvabhūtānāṃ tasyāṃ jāgarti saṃyamī |
यस्यां जाग्रति भूतानि सा निशा पश्यतो मुनेः ॥२.६९॥
yasyāṃ jāgrati bhūtāni sā niśā paśyato muneḥ ||2.69||
全ての生きものにとっての夜の中で 自分を熟知している賢者は目覚めています
生きものが目覚めているその中に 気づいている賢者にとっては夜です[2-69]
-
自分自身を何者かだと見なしている人にだけ、ヴェーダによって、カルマが申し付けられます。
ひとたび知識が現われたなら、それは留まります。
自分自身の知識は、現れてくる知識ではなく、知識は余すところなく輝いています。
全ての活動[ヴャヴァハーラ]は、「私は行いをする人」という観念、自分自身の無知からから生まれてますから、知識の目覚めで世間的なカルマと、聖典の言うカルマの両方が去ります。
リアルとリアルでないものの識別という本質の知識[アートマ・アナートマ・ヴィヴェーカ・ニャーナ]は、無知とは相反するものです。
ロープの無知が蛇を作り出し、ロープの無知が去るなら、蛇も去るように、自分自身の知識が起こる時、自分自身の無知は去り、そして無知が去る時、その産物も去ります。
ロープの無知は、ロープが見られた時、それが知られた時に去ります。
無知によって、あたかも在ったものが去ります。
問題の原因が除かれた時、その兆候も消えるのです。
同様に、理解した人の全活動は去り、その人は全てのカルマを手放した人[サルヴァ・カルマ・サンニャーシー]です。
「私はブランマチャーリー」「私は既婚者」「私は時間や、春、新月、満月、朝や夜に拘束されている人」という観念を持つ人、時間や、場所、グループに限られた人だと考える人に、シュルティであるヴェーダが、儀式をする様、呼び止め話しかけるのです。
「私はサット・チット・アーナンダ」と知るなら、シュルティは、その人を呼び止め話しかけません。
実際シュルティは、ヴェーダーンタと呼ばれる最後の章で、あなたはサット・チット・アーナンダであると言います。
それまではヴェーダは、もっぱら儀式と瞑想、二元性[ドヴァイタ]について話します。
全ての最後に「あなたはブランマンである[タット トヴァム アシ]」と言うのです。
パラマールタ・タットヴァは、究極のリアリティで 全ての物事の本質のリアリティです。
夢や目覚めている状態の中で、とてもリアルに思える相違は、この本質のリアリティから離れ、自立したリアリティではありません。
本質的にあるものは1つだけ、 それがわたしです[タド アハム アスミ]。
「知る人」「知られるもの」「知識」は私自身、「行い手」「行い」「為された事」は私自身、「世界」も「世界を知る者」も私自身です。
賢者には、パラマールタ・タットヴァが唯一で 、それが自分自身なのです。
賢者以外の人とっては、あらゆるものがリアルで、1つ以上のリアリティがあり、 いつも世界は耐え難いものです。
全てのものが、あなたから離れているなら、あらゆる言葉も、それら自身で独自のリアリティを持つので、 当然、あなたは二元性の世界を思い、サムサーラを体験します。
賢者は「わたし」というリアリティに目覚め、 その知識が「知る人」「知られるもの」の違いを無効にします。
「わたしはこの全てです[アハム イダム サルヴァム]」
以前、私は沢山の中の1つでしたが、今は、わたしが全て 内在的で、全てを超越しています。
わたしは、全てのものから自由です。
賢者[サムヤミー]は、この事実に目覚めています。
「私は悲しい」と言う人がいますが、賢者はどんな悲しみも見ません。
「世界はあんまりだ」と言う人がいますが、賢者はそう見ないのです。
世界があんまりなのではなく、あなたがあんまりなのでもなく、あなたこそが全てなのです。
ですから、賢者にとっての宇宙観は「わたしは限りがない[アハム プールナハ]」
賢くない人は「私は限界ある者だ[アハム ア・プールナハ]」と言います。
賢者にとって「アハム ア・プールナハ」は、まるで夜の様です。
皆に昼であることが、賢者にはまるで夜の様で、皆に夜である事が、賢者にはまるで昼の様です。
この様に、賢者は賢者で、賢者でない人は、賢者でない人なのです。
賢者でない人は、賢者を知りません。
昼と夜は出会わない様に、賢者は、賢者でない人の様に世界を見ません。
これらは交わらず、正反対です。
夜が明けると、夜は去り、夜が来ると、昼は去ります。
ナーラダが太陽神に「太陽神でさえも見た事のない人がいる」と言うので、「私が見たことがない人とは誰なのだ?」と太陽神はナーラダに尋ねます。
ナーラダは「暗闇さんと呼ばれる女性です」と答えました。
「何処に暗闇はいるのか?」と太陽が尋ねると、「彼女は今インドです。インドに行けば会えるでしょう」とナーラダが言いました。
暗闇さんを見たくて、太陽は東の空に昇りましたが、暗闇さんは、地球の反対側西のアンティポディーシュに行きます。
太陽神は怒り、本気でこの女性と会いたいがゆえ、再び彼女の後を追いますが、太陽が東に昇ると、暗闇さんは西に行き、太陽が西に沈むと、暗闇さんは東に来るのでした。
こうして太陽は、暗闇さんを見つけようと回り続け、今日でさえ続けています。
--
知識と無知は交わらないので、ギーターの教えを読んだとて、賢くなるわけではありません。
イーシュワラは天国や、限定される場所にいる人である神が、人を地上に落とし、状況や出来事に干渉していると考える人がいます。
それは「わたしが全て」という真実がリアルでは無いので、様々な憶測、思惑、信念、信仰があります。
賢者にとって全てが栄光、輝き[ヴィブーティ]です。
わたしの栄光[ママ ヴィブータヤハ]、わたしは食べられる食べ物です[アハム アンナム]、わたしは食べ物を食べる人です[アハム アンナーダハ]。
わたしは又、こういったこと全てから自由です。
無知な人は、この真実の宇宙観に目覚めず、無知な人が、目覚めていることに、賢者は目覚めてはいません。
これは、ロープを蛇に見間違えるのと似ています。
蛇を見る人は、恐れに震えますが、ロープをロープと見る人は、蛇がいると言われても、蛇ではなくロープがあるだけだと答えます。
アルジュナは、賢くあることでのみ、賢者を理解します。
実際は、賢者といった様なものも無く、智慧があなた、あなたが智慧なのです。
賢者とは、自分自身を知る人です。
あなたが、あなた自身を知るなら、あなたは賢者です。
「あなたが自分自身を知るまでは、賢者を理解出来ない」
この事実は、賢者の特徴を真似ることで、賢くなると思い、その特徴をクリシュナに質問したアルジュナにとっては失望的です。