पशान्तात्मा विगतभीर्ब्रह्मचारिव्रते स्थितः ।
paśāntātmā vigatabhīrbrahmacārivrate sthitaḥ |
मनः संयम्य मच्चित्तो युक्त आसीत मत्परः ॥६.१४॥
manaḥ saṃyamya maccitto yukta āsīta matparaḥ ||6.14||
考えが静かで、恐れなく、ブランマチャーリーの生活に専心に確立したヨーギーが
考えを統括し究極のゴールである私を思い座りますように
-
考えに起こるさまざまな思考の形から引き下がり[マナハ サムヤムミャ]、考えを瞑想の対象[デェーヤ]に集中し、考えが「私」、パラメーシュワラにある人[マット・チッタ]です。
パラメーシュワラには、二つの意味があり、シャーストラによくでてくる表現です。世界の源[ジャガット・カーラナ]としての神と、本質の姿である神[ブラフマン、パラマートマー]とを意味します。
「私は、個人である」と思っているジーヴァは、パラメーシュワラと同じですから、パラマートマーという言葉が使われています。
この2つは異なっているように見えるとしても、実際には、何の違いもありません。
解決するのは、クリシュナのウパデーシャとヴェーダーンタの教えです。
この様に、神[パラメーシュワラ]としてジーヴァを断言することは、ウパデーシャであり、そのためにヴェーダーンタ・シャーストラの中に二種類の表現、ヴァーキャがあります。
1つは、アートマーの本質とパラメーシュワラの本質を明かします。
もう1つは、ジーヴァと、パラメーシュワラの間には全く違いがないことを明らかにします。
サッテャ・ニャーナ・アナンタがブランマンであるという言葉や、サット・チット・アーナンダがアートマーであるという言葉で、アートマーの本質が明らかにされます。
両方が同一であるということを明かしています。
含み持つ意味によって、自分自身の本質を明かすその言葉はいつも同じです。
また、ジーヴァとイーシュワラの間にも等式[1+1=100-92]が成り立ちますが、その等式そのものが、教え[ウパデーシャ]です。
このように、2つのヴァーキャがあります。
①アートマーの本質を明かす文[ヴァストゥ・スヴァルーパ・パラ・ヴァーキャ]
②個人と神が同一だと明かす文[エーカットヴァ・パラ・ヴァーキャ]
「あなたはブランマンです[タット トヴァム アシ]」や、「私はブランマンです[アハム ブラフマ アスミ]」が②にあたります。
ジーヴァとイーシュワラが同じとは、ジーヴァが、サット・チット・アーナンダであり、パラメーシュワラもサット・チット・アーナンダであるということです。
私の本質がサット・チット・アーナンダであるので、ジーヴァとイーシュワラは同じものであるという文[ジーヴァ・イーシュワラ・アイキャ・ヴァーキャ]は、納得できるものです。
私の本質が、サット・チット・アーナンダでなければ、この等式は完全に無効になりますから、両方のヴァーキャが大事なのです。
ジーヴァ・イーシュワラ・アイキャ・ヴァーキャは、アートマーの本質を明かしているヴァーキャがあってこそ、理解され得ます。
もし、そのヴァーキャがなければ、等しいことを示すヴァーキャは無意味になってしまうでしょう。
ジーヴァはジーヴァで、イーシュワラはイーシュワラになってしまいます。
’’波が海である’’と言う時、水自体が理解されなければならず、水を理解してはじめて、’’波と海が同じ’’と言うヴァーキャが意味を持ちます。
自分が波と思っている波に向かって、「君は海だよ。」と言う時、サッテャが水であるという知識を波が持っていない限り、その言葉は理解されません。
見た目、媒体[ウパーディ]が違うので、1つは「波」と呼ばれ、もう1つは「海」と呼ばれます。
実際、「波」とか「他のもの」など全くなく、あるのはただ1つ、水なのです。
だから、それぞれ両方のヴァーキャが、共に役割を果たしているのです。