युक्ताहारविहारस्य युक्तचेष्टस्य कर्मसु ।
yuktāhāravihārasya yuktaceṣṭasya karmasu |
युक्तस्वप्नावबोधस्य योगो भवति दुःखहा ॥६.१७॥
yuktasvapnāvabodhasya yogo bhavati duḥkhahā ||6.17||
食事やその他の活動を思慮深く適切に行う人
すべきこと、睡眠と目覚めの時間に関して適切に努力をする人
(その人にとって)瞑想は悲しみを破壊する道具となります
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この詩で扱われている人は、眠りや、起きている時間に関して、均整の取れた感覚がある人です[ユクタ・スヴァプナ・アヴァボーダ]。
子供時代の睡眠時間や、体質を含む様々な要因で、人それぞれ、規定はないので、ユクタという言葉が、慎重に使われていることを理解します。
睡眠や起きている時間のバランス感覚のある人に、ヨーガはあります[ヨーガハ バヴァティ]。
このヨーガは、悲しみを打ち砕く[ドゥッカハー]知識です。
この知識は、悲しみにさらされている人の世界観の全てを変容させることで、悲しみを打ち砕くのです。
世界観の変容とは、自己理解、私は悲しみから自由であると見抜くこと[バーディタ・アハンカーラ]を意味します。
行い手を否定し、悲しみが上手く対処されます。
この様に、悲しみの破壊(人の根底の問題の消散)は、純粋に知識[ニャーナ]を意味し、この知識をここでヨーガと呼んでいます。
シャンカラの解説でドゥッカは、あらゆる種類の悲しみ[サルヴァ・サムサーラ・ドゥッカ]を指しています。
「私の人生は大丈夫、私の周りの人が問題」と言うのは、人生が大丈夫ではないことを示しています。
ですから、全ての悲しみを破壊する知識の追求に人生を注ぎます。
食べ過ぎず、食べなさすぎず、眠り過ぎず、睡眠不足にならず、運動し過ぎず、また全く運動をしないことなど、ありませんように。
すなわち、行いをゴールとするのではなく、それを手段とし、行いをカルマヨーガに還します。
生活の中に、教養と鍛錬を持つには、適切、適度な釣り合いが必要です。
例えば、ヨーガ・アーサナなどは鍛錬で役立ちますが、その練習だけに生活を専念させることでも、無視するということでもありません。
探求者は、アシュターンガ・ヨーガに基づくある規律に従うので、瞑想的な生活は、ヨーガ・アーサナとプラーナーヤーマを含みます。
従うべき規律も、適切、適度なバランスを保つ、つまり、熱中しすぎないし、無視されないことが重要です。
取り組むことが、その人にとって生きがいになってしまう傾向が多々あります。
するよりむしろ、知るべきことがある、ので熱狂者になるべきではない、とクリシュナは言います。
人の体[シャリーラ]は、モークシャを得るための基本となる道具[サーダナ]として、カーリダーサによって定義されました。
ユクタ・チェーシュタは、自分自身の知識を得ることを可能にするに必要な健康を享受するため、食べること、眠ること、適切な鍛錬など、適切な健康を維持し、これらを軽視せず、すべきことをします。
サムサーリーはいつも「いつ?」と言い、時間がかかること、骨の折れる追求は、本当に時間をかけるべきなのか?努力するに値するか?と、取り組む前から知りたがります。
しかし私は、既に自分自身を得ています。
私はあるがままで、あらゆる制限から自由であるという理解ですから、他に何も得るものなど無いのです。
「分かりました。完全な自己受容、私は全体という視点は、興味深いですが、いつこの世界観を得れますか? どの位かかりますか? それを早く得て、今まで通りの生活に戻りたいです。」
と、インスタントに学びたがるかもしれませんが、これは人生です。
「いつ?」はなく、そこには、ただ人生があるだけで、これ以外の人生はありません。
知っていようがいまいが、人が求めるものは、あらゆる制限からの自由。
何かをしたとて、この追求が失せることはありません。
どこにいても、何をしていても、自分自身と在りますから、それが十分な材料となり、この知識への明確さが増していきます。
それなりの時間は必要ですが、どこまでも喜びですから、それは問題ではありません。
煩わしさを感じる時に「これを、どれ位するのか?」と、気がかりになるのです。
自己の知識の追求は、自分自身の知識[アートマ・ヴィッデャー]、私の素晴らしさを教える知識ですから、いつもご機嫌です。
宗教は普通、あなたが、いかにひどい状況で、救われなければならないと説き(前半のヴェーダ)、これ(ヴェーダーンタ)を教えてくれません。
この知識は、既に私は救われていることを教え、そこには問題が無いので「いつ?」という質問は起こりません(10人目の男)。
しかし、知るべきことは、この知識を持つ人の状態ですから、それが次の詩で述べられます。