यतो यतो निश्चरति मनश्चञ्चलमस्थिरम् ।
yato yato niścarati manaścañcalamasthiram |
ततस्ततो नियम्यैतदात्मन्येव वशं नयेत् ॥६.२६॥
tatastato niyamyaitadātmanyeva vaśaṃ nayet ||6.26||
何らかの理由で、考えは去り、常に動き回り、不安定です
そこから、自分自身のみにこれを引き戻し、自分の手中に収めますように
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アートマーに置かれるもの、熟考するものが考えですから、考えがこの詩で扱われています。
どこかに行ってしまうもの[ニシュチャラティ]が、考えです。
いつも揺れ動く[チャンチャラ]というのが、考えの本質ですから、考えは、全く落ち着きません[アスティラ]。
チャンチャラと、アスティラという言葉両方が、それぞれを特徴付け合っています。
揺れ動くと、考えは定まりませんし、定まっていないと、考えは揺れ動きます。
◎考え自体が問題なのではない
どんな理由にせよ[ヤタハ、ヤタハ]、考えは、瞑想の対象から出て行きますが[ニシュチャラティ]、それは問題ではなく、自然なことです。
鳥の声を聞くなら、考えは、その音について行き、鳥のさえずりと認識するなら、その鳥の種類は何かを確かめようとし、そして誰かに話しかけられるなら、考えはどこかに行ってしまいます。
考えの中に全ての世界がありますから、考えが去る為に、外の世界など必要ありません。
たくさんの人生経験から作られた記憶から、考えはポップアップし、考えは、瞑想の対象物(自分自身)から離れていきますから、鍛錬して[ニヤンミャ]考えを引き戻します。
引き戻そうとするのではなく、むしろ、考えが向かうその対象物を、しばらくの間眺めるなら、それが意識から独立して存在しない[ミッテャー]ことが分かり、真実[サッテャ]に戻っていくと、シャンカラは言います。
サッテャが、わたしです。
ヴェーダ全体が、この主体、対象、行い、行いの道具について話しますが、最後の章で、今まで述べた全ては真実ではない[ミッテャー]と告げます。
瞑想の対象[サッテャム]から、連れ去るその思考も、対象もミッテャーですから、考えを自分の手の内に戻さねばならない[ヴァシャム ナイェート]とクリシュナは言います。
私の注意は、意識、ヴァストゥそのものに向けられますから、どんなものも私の注意をそらすことなどありません。
この瞑想の練習[デャーナ・ヨーガ]で、考えは、アートマーに解消してゆきます。
自分自身を間違って認識することなく、考えは、考えとして残りますが、それは問題ではありません。