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ギーターヨーガ

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【ギーター】第6章31番目の詩

सर्वभूतस्थितं यो मां भजत्येकत्वमास्थितः ।
sarvabhūtasthitaṃ yo māṃ bhajatyekatvamāsthitaḥ |

सर्वथा वर्तमानोऽपि स योगी मयि वर्तते ॥६.३१॥
sarvathā vartamāno'pi sa yogī mayi vartate ||6.31||

全ての存在の中に宿る、唯一無二である、私を得たその人は

そのヨーギーは、何をしようと、私に留まります

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私[アートマー]は、パラメーシュワラから離れたものではありません。

この宇宙観は、アートマーとは唯一無二であるということ。

2つとない1つですから、アートマーは分かれようがない全体である、ということが述べられています。

また、神[イーシュワラ]も分かれていない全体[エーカットヴァ アースティタハ]として理解するなら、私の真実[アートマー]も、世界の真実[パラメーシュワラ]も、同じであるという世界観を得ます。

神が、唯一無二であり、神しかいないと言う時、その神とは、私のことです。

それを見抜くなら、どんな行いをしていようと、イーシュワラのみに留まるヨーギーです。

[sarvathā vartamānaḥ api saḥ yogī mayi vartate]

「この世界観を得たなら、それは2度と失われないのか?」という質問に対し、この詩は答えます。

何をしていようが、その人に何が起ころうが、ブラフマチャーリ―でも、グラハスタでも、サンニャーシーでも、老若男女問わず、その世界観はとどまります。

人生の段階や、職業は全て、その人のプラーラブダのためで、良いも悪いもありません。

◎その世界観を持つ人には、シャーストラはもはや当てはまらない

シャーストラが、ダルマとアダルマに関して述べることは、ダルマとアダルマを超えた人には全く当てはまりません。

この人は、常に自由な人[ニッテャ・ムクタ]と呼ばれます。

この自由な人は、決して私(イーシュワラ)から離れていません。

私(イーシュワラ)も、その人から離れることはありません。

なぜなら人は、自分自身から離れたりできないからです。

今も私は、自分自身の真実、サット・チット・アーナンダ・アートマーから離れてはいません。

無知ゆえに、私を遠ざけるだけです。

その人がどこにいようと、何をしていようと、自分自身にとどまります。

生きながらにして自由である人[ジーヴァン・ムクタ]は、私から立ち去ることはありません。

この宇宙観、つまり、アートマーの知識の結果が、自由[モークシャ]です。

◎イーシュワラを「信じる」とき、イーシュワラは離れている

イーシュワラは、自分自身と離ていない。

信じられている物、推理、推測される物、すなわち、離れた存在、間接的な存在が、パロークシャです。

もし、イーシュワラが推測する対象なら、それは、確信できる証拠がないので信じることになりますし、イーシュワラが、信じる対象であるなら、パロークシャです。

一方、見る、聞く、匂う、味わう、触るといった、感覚的に知覚される物は、プラッテャクシャと呼ばれます。

直接的に知覚できるものがプラッテャクシャ、間接的に結論に達するものがパロークシャと呼ばれます。

イーシュワラが、直接知覚できるなら、それはアナートマーですから、イーシュワラは、プラッテャクシャにはなりえませんし、イーシュワラは推測されることもありえません。

アナートマーは、完全に意識であるアートマーに依存しています。

そうであるなら、それはミッテャーで、アートマーである私がサッテャです。

イーシュワラを信じる人のことを、アースティカと呼びます。

アースティカは、プラマーナであるシャーストラ(前半のヴェーダやヴェーダ・アンガ)によって、イーシュワラの存在を理解したり、信じたりします。

真実かどうかを、確かめられなくとも、知識の道具であるシャーストラに信頼を置き、イーシュワラの存在を、受け入れます。

その受け入れるという信念が、間接的知識[パロークシャ・ニャーナ]です。

◎自分自身の知識は、直の知識である

ここで議論されている知識は、パロークシャ・ニャーナではありません。

自分自身の知識を得た人は、「私が全て。私から離れたものなどない」という結論を持っています。

この詩で、クリシュナ神が「私」と言う時、それは、純粋な意識[チャイタンニャ]、パラム・ブラフマのことで、それ以外の全ての物が、それに頼っています。

このサッテャ・ニャーナ・アナンタ・ブラフマンが自分自身、イーシュワラと自分自身には、違いはありません。

私は、決してイーシュワラに対しパロークシャにはならず、イーシュワラが、私に対しパロークシャになったりしません。

これがアドヴァイタ、イーシュワラとジーヴァの間に違いがないこと[アベーダ]で、個と神の正体の一致[ジーヴァ・イーシュワラ・アイキャ]です。

シャンカラは、30番目の詩の解説でも、アートマーは決してパロークシャにはならないと指摘しています。

自分自身以外のものは何もありませんから、アートマーは、いつも自由[ニッテャ・ムクタ]で、束縛の境遇などありません。

クリシュナは「その人は、私にのみ留まる[マイ エーヴァ ヴァルタテー]」と言いました。

これは、無知が去るなら、知識が失われるという問題は全くないことを意味しています。

自分自身の知識は、記憶に基づいた知識ではありません。

記憶に基づいた知識のみが、忘れられる可能性があります。

持っているものは、常に失います。

記憶は、私に頼ってありますから、失うこともありますが、ここで知られていることは、まさに自分自身です。

かつての自分自身についての無知が去り、私がブランマンという知識に目覚めます。

この知識を得たなら、決して失うことはありません。

アートマーが、パロークシャにならない限り、賢者が私から離れてしまうことはありえません。

アートマーは、いつも私に直に知られているもの[ニッテャ・アパロークシャ]ですから、パロークシャにはなりえません。

サムサーラは、推測されるものではなく、直にその人に知られ、それは推測されるものではなく、その人が直接認識していますから、それはアパロークシャです。

サムサーリー、アッニャーニーにとって「私がある」というのは直の知識[アパロークシャ]。

そして、ヴィヴェーキー、ニャーニ―にとっても「私がある」というのは直の知識アパロークシャです。

ですから、アートマーはいつも自分自身で明らか[ニッテャ・アパロークシャ]で、いつも自由で、解き放たれています[ニッテャ・ムクタ]。

知識によって、自分が常に自由であるという事実を認識した人が、生きながらにして自由な人[ジーヴァン・ムクタ]です。

この知識を得たなら、ヴァイディカ・カルマをしようがしまいが、教えようが教えなかろうが、その人の望むことをさせなさい。

人生のどのステージでも良いし、どんな行いでもさせなさい。

それでもその人は、まさに私(イーシュワラ)と共にいます。

行い手ではないその人が、もし仮に殺人を犯したとて、その人は私から離れることはありません。

もちろん、そのような人が、そんな行いを犯すことなどありませんが。