सर्वभूतस्थितं यो मां भजत्येकत्वमास्थितः ।
sarvabhūtasthitaṃ yo māṃ bhajatyekatvamāsthitaḥ |
सर्वथा वर्तमानोऽपि स योगी मयि वर्तते ॥६.३१॥
sarvathā vartamāno'pi sa yogī mayi vartate ||6.31||
全ての存在の中に宿る、唯一無二である、私を得たその人は
そのヨーギーは、何をしようと、私に留まります
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私[アートマー]は、パラメーシュワラから離れたものではありません。
この宇宙観は、
2つとない1つですから、
また、神[イーシュワラ]も分かれていない全体[エーカットヴァ アースティタハ]として理解するなら、私の真実[アートマー]も、世界の真実[パラメーシュワラ]も、
神が、唯一無二であり、神しかいないと言う時、その神とは、私のことです。
それを見抜くなら、どんな行いをしていようと、
[sarvathā vartamānaḥ api saḥ yogī mayi vartate]
「この世界観を得たなら、それは2度と失われないのか?」という質問に対し、この詩は答えます。
何をしていようが、その人に何が起ころうが、ブラフマチャーリ―でも、グラハスタでも、サンニャーシーでも、老若男女問わず、その世界観はとどまります。
人生の段階や、職業は全て、その人のプラーラブダのためで、良いも悪いもありません。
◎その世界観を持つ人には、シャーストラはもはや当てはまらない
シャーストラが、ダルマとアダルマに関して述べることは、ダルマとアダルマを超えた人には全く当てはまりません。
この人は、常に自由な人[ニッテャ・ムクタ]と呼ばれます。
この自由な人は、決して私(イーシュワラ)から離れていません。
私(イーシュワラ)も、その人から離れることはありません。
なぜなら人は、自分自身から離れたりできないからです。
今も私は、自分自身の真実、サット・チット・アーナンダ・アートマーから離れてはいません。
無知ゆえに、私を遠ざけるだけです。
その人がどこにいようと、何をしていようと、自分自身にとどまります。
生きながらにして自由である人[ジーヴァン・ムクタ]は、私から立ち去ることはありません。
この宇宙観、つまり、アートマーの知識の結果が、自由[モークシャ]です。
◎イーシュワラを「信じる」とき、イーシュワラは離れている
イーシュワラは、自分自身と離ていない。
信じられている物、推理、推測される物、すなわち、離れた存在、間接的な存在が、パロークシャです。
もし、イーシュワラが推測する対象なら、それは、確信できる証拠がないので信じることになりますし、イーシュワラが、信じる対象であるなら、パロークシャです。
一方、見る、聞く、匂う、味わう、触るといった、感覚的に知覚される物は、プラッテャクシャと呼ばれます。
直接的に知覚できるものがプラッテャクシャ、間接的に結論に達するものがパロークシャと呼ばれます。
イーシュワラが、直接知覚できるなら、それはアナートマーですから、イーシュワラは、プラッテャクシャにはなりえませんし、イーシュワラは推測されることもありえません。
アナートマーは、完全に意識であるアートマーに依存しています。
そうであるなら、それはミッテャーで、アートマーである私がサッテャです。
イーシュワラを信じる人のことを、アースティカと呼びます。
アースティカは、プラマーナであるシャーストラ(前半のヴェーダやヴェーダ・アンガ)によって、イーシュワラの存在を理解したり、信じたりします。
真実かどうかを、確かめられなくとも、知識の道具であるシャーストラに信頼を置き、イーシュワラの存在を、受け入れます。
その受け入れるという信念が、間接的知識[パロークシャ・ニャーナ]です。
◎自分自身の知識は、直の知識である
ここで議論されている知識は、パロークシャ・ニャーナではありません。
自分自身の知識を得た人は、「私が全て。私から離れたものなどない」という結論を持っています。
この詩で、クリシュナ神が「私」と言う時、それは、純粋な意識[チャイタンニャ]、パラム・ブラフマのことで、それ以外の全ての物が、それに頼っています。
このサッテャ・ニャーナ・アナンタ・ブラフマンが自分自身、イーシュワラと自分自身には、違いはありません。
私は、決してイーシュワラに対しパロークシャにはならず、イーシュワラが、私に対しパロークシャになったりしません。
これがアドヴァイタ、イーシュワラとジーヴァの間に違いがないこと[アベーダ]で、個と神の正体の一致[ジーヴァ・イーシュワラ・アイキャ]です。
シャンカラは、30番目の詩の解説でも、アートマーは決してパロークシャにはならないと指摘しています。
自分自身以外のものは何もありませんから、アートマーは、いつも自由[ニッテャ・ムクタ]で、束縛の境遇などありません。
クリシュナは「その人は、私にのみ留まる[マイ エーヴァ ヴァルタテー]」と言いました。
これは、無知が去るなら、知識が失われるという問題は全くないことを意味しています。
自分自身の知識は、記憶に基づいた知識ではありません。
記憶に基づいた知識のみが、忘れられる可能性があります。
持っているものは、常に失います。
記憶は、私に頼ってありますから、失うこともありますが、ここで知られていることは、まさに自分自身です。
かつての自分自身についての無知が去り、私がブランマンという知識に目覚めます。
この知識を得たなら、決して失うことはありません。
アートマーが、パロークシャにならない限り、賢者が私から離れてしまうことはありえません。
アートマーは、いつも私に直に知られているもの[ニッテャ・アパロークシャ]ですから、パロークシャにはなりえません。
サムサーラは、推測されるものではなく、直にその人に知られ、それは推測されるものではなく、その人が直接認識していますから、それはアパロークシャです。
サムサーリー、アッニャーニーにとって「私がある」というのは直の知識[アパロークシャ]。
そして、ヴィヴェーキー、ニャーニ―にとっても「私がある」というのは直の知識アパロークシャです。
ですから、アートマーはいつも自分自身で明らか[ニッテャ・アパロークシャ]で、いつも自由で、解き放たれています[ニッテャ・ムクタ]。
知識によって、自分が常に自由であるという事実を認識した人が、生きながらにして自由な人[ジーヴァン・ムクタ]です。
この知識を得たなら、ヴァイディカ・カルマをしようがしまいが、教えようが教えなかろうが、その人の望むことをさせなさい。
人生のどのステージでも良いし、どんな行いでもさせなさい。
それでもその人は、まさに私(イーシュワラ)と共にいます。
行い手ではないその人が、もし仮に殺人を犯したとて、その人は私から離れることはありません。
もちろん、そのような人が、そんな行いを犯すことなどありませんが。