जातस्य हि ध्रुवो मृत्युर्ध्रुवं जन्म मृतस्य च ।
jātasya hi dhruvo mṛtyurdhruvaṃ janma mṛtasya ca |
तस्मादपरिहार्येऽर्थे न त्वं शोचितुमर्हसि ॥२.२७॥
tasmādaparihārye:'rthe na tvaṃ śocitumarhasi ||2.27||
生まれるものの死は確実で、死んでいるものの誕生は確実です
ですから、変えられないものに、あなたは悲しむ理由がありません[27]
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生まれるものは、死に関する選択肢はありません。
クリシュナ、ラーマ、他の全てのアヴァターラ達も、「生まれた」という理由で皆死にます。
ビーシュマが永遠である事を、アルジュナは望んでいるのではありませんでした。
ただ、もうあと数年ビーシュマに生きて欲しかったのです。
「なぜ、ビーシュマにあと数年生きて欲しいのですか?例えビーシュマがもう少し長く生きたとして、あなたも生き延びるという保障はないですよ」と、クリシュナは言ったかもしれません。
パリークシット王は、1週間で死ぬという呪いをかけられ、ヴャーサの息子シュカの所に行き、あと1週間しか生きられないことを話すと、シュカはただ笑いました。
「あなたは1週間で死ぬと言っていますが、これは7日間生きられると言う事です。私にはそんな保障はありません。」
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誰もが常に死ぬ可能性があります。
死が訪れる時は、誰もが予測できませんし、何万年も生き続ける岩の年に比べるなら、誰もそんな長くは生きられません。
私達が85歳になる頃には、ほとんどの細胞は死んで、残りの細胞も古く疲れ果てています。
新しいことを記憶することは出来ず、時間の絶え間ない流れにおいて、少し早いとか、少し遅いということは何も意味しません。
人は伝記を持つと主張しますが、この絶え間ない流れの中で、100年は何でもありません。
私達はどんな物語を持っていますか?
短い時間の中で、再びバラバラになる幾つかのものが、一緒になっただけに過ぎないのがこの体です。
私達が今夜見ている星は、200光年離れているかもしれません。
私達が見ている光は200年前にその星を離れました。
その光が、私達の目に映る時には、今見ている星は既に死んでしまっているかもしれません。
光ほど早く動くものはありませんが、時間に関するコンセプトの全ては、光の速さに関係しています。
それは一定で、それを持ってして、私達は動きや、他の全てのものを計ります。
100年という絶え間ない流れの中では、一瞬の閃光(せんこう)に過ぎません。
私達はチラッと光る閃光のように現れ、すすり泣くように去っていきます。
泣いたり、笑ったり、結婚したり、離婚したり、隠退したり・・・。
全てがこの一瞬の輝きです。
この人生は瞬間の輝き、1つの閃光に他ならず、それは消え去ります。
生まれた人が死ぬのなら、死んだ人は必ず生まれます。
反対にもし死んだ人が生まれるのなら、生まれる人は必ず死ぬでしょう。
この変える事が出来ない事実を、あなたは変える事は出来ませんが、アートマーは、いつもそこに在り、あなたからどんな悲しみも引き出しません。
アートマーの為に悲しむ必要はなく、またアナートマーの為に悲しむ必要もありません。
「私が変えられない事を受け入れられます様に」
変えられない事は、どんな悲しみにも値しません。
クリシュナが次の詩で更に詳しく要点を述べます。