नेहाभिक्रमनाशोऽस्ति प्रत्यवायो न विद्यते ।
nehābhikramanāśo'sti pratyavāyo na vidyate |
स्वल्पमप्यस्य धर्मस्य त्रायते महतो भयात् ॥२.४०॥
svalpamapyasya dharmasya trāyate mahato bhayāt ||2.40||
カルマヨーガにおいて、努力の浪費はなく、反対の結果がもたらされることもありません
ほんの少しのカルマ-ヨーガでさえ、人を大きな恐れから守ります。[2-40]
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行い[karma]の結果を追い求めることではなく、カルマヨーガとは、態度であり、モークシャを求めた生き方です。
耕作という行いを試みること[abhikrama]はできても、収穫が出来ないこともあります。
雨が降らないかもしれないし、害虫に食べられてしまうかもしれませんし、適切でない時期に、雨が多く降り過ぎる事さえあるかもしれません。
しかし、この詩でクリシュナは「カルマ・ヨーガには、どんな破壊もない[abhikrama-nāśaḥ na asti ]」と言います。
ヨーギーの全ての行いは、考えを清める[antaḥkaraṇa-śuddhi]為の、純粋な祈りで、祈りそのものが結果を生み出します。
後に訪れる結果だけでなく、「今、私は祈ることが出来る」という真実が、祈りの結果です。
カルマヨーガとは、単なる行いではなく、物事に対する考えの在り方です。
それが、1つの取組みであれば、その過程において、障害や、望む結果への妨げがあり得ます。
例えば、聖典で命じられる儀式[vaidikakarma]の中で、儀式を適切に行わないことから、努力の浪費[abhikramanāśa]があるでしょう。
行為自体がなされないことや[omission]、正しくない行為がなされたこと[commission]があるかもしれません。
間違った方法でなされたり、相応しい施しもの[dakṣiṇā]を分配しないなら、結果はありませんから、カルマにおいては破壊[nāśa]があり得ます。
しかし、カルマヨーガの場合、破壊[nāśa]はなく、カルマヨーギーは結果[karmaphala]に振り回されたりしません。
なぜなら、モークシャを得る為のantaḥkaraṇa-śuddhiのみが目的です。
この詩の反対の結果[pratyavāya]という言葉は、「不完全な結果」「好ましくない結果」という2つの意味を持ちます。
特別な儀式[karma]には、それに付随する様々な儀式があり、それらが為されなければ、全く結果がないか、または好ましくない結果があるでしょう。
カルマヨーガにおいて、この様な問題は存在しません。
カルマヨーガは、ものごとに対する心持ち(attitude)で、この態度でカルマをし続けます。
この心持ちの変化が、行いをヨーガにします。
◎カルマヨーガとは、ものごとに対する思い方
ほんの少しだけでも[svalpam api]、カルマヨーガの学び、考えの在り方はサムサーラの大きな恐れからあなたを守ります[trāyate mahato bhayāt]。
一旦カルマヨーガの生活をはじめたなら、あなたは異なった旅をはじめています。
山の頂上から水が流れ降りるのではなく、頂上に向かって流れるかのようです。
カルマヨーガを通し、あなたは人生を反転させました。
1度でも反転の人生を歩むなら、多くの障害があっても、あなたを止められません。
この人生で、それを成し遂げられなくても、次の人生でそれを続けられるとギーターが保証します。
モークシャ・マールガを追求している間に肉体を離れたとしても、それを完成させるのにそれ程時間はかかりません。
あなたが反転の人生を歩みだしたというその事実は、旅がほとんど終わろうとしている事を示しています。
あなたは正しい道のりにいるのです。
その反転の人生が、大きな祝福であると、ギーターはカルマヨーガを讃えます。