千葉県立 青葉の森公園近くの小さなヨガ教室

ギーターヨーガ

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【ギーター】第3章02番目の詩

व्यामिश्रेणेव वाक्येन बुद्धिं मोहयसीव मे ।

vyāmiśreṇeva vākyena buddhiṃ mohayasīva me |

तदेकं वद निश्चित्य येन श्रेयोऽहमाप्नुयाम् ॥३.२॥

tadekaṃ vada niścitya yena śreyo'hamāpnuyām ||3.2||

矛盾しているかのように思える言葉で、まるで、あなたは私の考えを困惑させているかのように思えます。どちらがいいのか決めた上で、自由を得るための、ひとつのことを私に教えてください。

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アルジュナは、教えを理解できず混乱していましたが、決してクリシュナを非難することはありませんでした。

彼は「あなたは矛盾したことを言って私を混乱させている」と言う代わりに、サンスクリット語で「まるで~のようだ」を意味する「iva」という言葉を使い「まるで矛盾しているような言葉で、まるで私を混乱させているように見えます」と伝えました。

この「iva」という一言には、クリシュナ側に混乱させる意図がないことを認めた上で、あくまで受け手である自分自身の側の理解が追いついていないことを示す、深い敬意と客観性が込められています。

日常の対話において、相手を直接非難する言葉は、相手を防御的な姿勢にさせ、対話を遮断し、さらなる誤解を生む原因となります。

しかし、アルジュナのように「私にはそのように受け取れます」という態度は、相手の尊厳を傷つけることなく、円滑なコミュニケーションを維持することができるのです。

アルジュナのこの態度は、クリシュナの教えを正しく理解したいという純粋な熱意と、師に対する絶対的な信頼に基づいた、コミュニケーションの重要な原理を私たちに示しています。

モークシャは行いによって作れない

アルジュナが抱いた最大の疑問は、知識と行いをどちらも追求することが不可能だという認識から生じていました。

クリシュナが賢者を讃える際、知識こそがモークシャにふさわしいことを明確にしたため、アルジュナは「知識こそが最優先事項であり、それを追求するなら行いは放棄すべきだ」という結論に至りました。

モークシャは、作り出したり、修正したり、浄化したり、あるいはどこかへ移動して到達したりするような、カルマの「4つの結果」には決して当てはまらない、自分自身そのもののだからです。

一度得れば失われることのない永遠の自由を求めているアルジュナにとって、時間と共に消え去る結果しか生まないカルマは、モークシャの探求において無益なものに思えました。

だからこそ、アルジュナはクリシュナに対し、あいまいに両方を勧めるのではなく、どちらか一方、自分にとって本当に有益な「一筋の道」を決定してほしいと切望しました。

もしクリシュナが、知識こそが最高の道であると認めるのであれば、なぜ自分を戦いという過酷な行いに従事させるのか、その正当な理由を知りたいと考えました。

アルジュナの目には、知識を求めるサンニャーサの道と、義務を果たすカルマの道は、決して交わらない、正反対の方向を向いているように見えていたのです。

知識の本質

知識とは、「あるがまま」という真実を認識することで、それは個人の意志や願望によって左右されるものではありません。

例えば、目の前にあるロープをロープとして認識することは知識ですが、それを「蛇であってほしい」と願っても、真実は変わりません。

アルジュナはこの異なる2つの道が、どのように自分をシュレーヤスへ導くのか、その「一筋の確かな答え」をクリシュナに求めました。

アルジュナが「あれも良い、これも良いとは言わないでほしい」と訴えた背景には、教え手によって、あるいは生徒の成熟度によってアドバイスが変わり得るという現実への不安がありました。

未熟な者に結婚を勧めない教師のように、あるいは手術を勧める医師のように、状況によって処方が異なることを知っていたからこそ、アルジュナは自分自身の今の状況にとって、最も適切で決定的な唯一の道を指し示してほしいと願ったのです。

知識とカルマに関してのアルジュナの混乱

ラーマーヤナのエピソードが、対話における「一貫性」と「誠実さ」がいかに重要であるかを、プラハスタの態度を通して見事に描き出しています。

アルジュナが混乱したのは、クリシュナが、自分という一人の生徒に対して「知識」と「行い」という正反対に見える二つの指示を同時に出していると感じたからです。

これは、ラーヴァナの顔色をうかがい「返すべきだ」と言った直後に「返す必要はない」と言い、相手を「神の化身だ」と言った直後に「取るに足りない人間だ」と言い換えるプラハスタの、支離滅裂な対応に似ていました。

プラハスタは相手に気に入られるために「イエス」を繰り返しただけでしたが、アルジュナにとっては、クリシュナのような最高の師がそのような矛盾した態度をとるはずがないという信頼があったからこそ、その「真意」を測りかねて苦悩したのです。

プラハスタのような態度は、一時的には身を守るかもしれませんが、真理を求める探求においては何の助けにもなりません。

アルジュナが求めていたのは、状況によってコロコロ変わる都合の良い言葉ではなく、自分を迷いから救い出してくれる、岩のように揺るぎない「一筋の道」でした。

先生が質問に答える

アルジュナは、プラハスタのような保身のための「はぐらかしの言葉」を求めていたのではありません。

彼にとってクリシュナは、サッテャとミッテャーを明確に解き明かしてくれる唯一の存在でした。

アルジュナの考えは、知識こそが自由への扉であり、カルマはサムサーラの結び目をより強固に、複雑にするものでしかありません。

もし目的がモークシャならば、なぜわざわざ結び目を増やすような「行い」を強いるのか。

この矛盾を、自分の理解不足であると認めつつも、師の意図を測りかねていたのです。

私にとって最善である唯一のことを教えてほしいというアルジュナの願いに対し、クリシュナは彼を突き放すことも、はぐらかすこともしませんでした。

クリシュナは、アルジュナが抱く「知識か、行いか」という視点を、より大きな「人間の成熟のプロセス」という視点へと引き上げることで、その疑念に答えていきます。