千葉県立 青葉の森公園近くの小さなヨガ教室

ギーターヨーガ

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【ギーター】第3章40番目の詩

इन्द्रियाणि मनो बुद्धिरस्याधिष्ठानमुच्यते ।

indriyāṇi mano buddhirasyādhiṣṭhānamucyate |

एतैर्विमोहयत्येषो ज्ञानमावृत्य देहिनम् ॥३.४०॥

etairvimohayatyeṣo jñānamāvṛtya dehinam ||3.40||

アディシュターナは感覚、考え、知性であると言われています。

これらによって、それ(願望)は、人の知恵を覆い、惑わします[40]

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「不適切だと知りながらも、カーマのみが、行いをするように人を駆り立てる」と、クリシュナはアルジュナに言いました。

他者の役割[パラダルマ]を羨ましがり、自分の役割[スヴァダルマ]を放棄してしまうような、ゴール間違えはまれにありますが、ゴールが重要な時、人は願望を満たす方法を妥協してしまいます。

「この願望が満たされなければ、私は幸せではない」という束縛があるカーマがある時に、混乱があるのですが、願望の領域を知るなら、それをどう対処するかが分かります。

◎アートマーは願望から自由

これは、警察が泥棒を扱う方法に似ていて、警察は手口やパターンを基に、常習犯を調査し分析します。

同様に、願望が働く領域が分かれば、カーマは管理し処理することが簡単です。

願望の中にサット・チット・アーナンダはありますが、サット・チット・アーナンダの中に願望はありません。

アートマー無しに、願望も、どんな考えもありませんし、痛み、喜び、どんな状況にもアートマーはありますが、アートマの中に願望はありません。

アートマーは、いつも純粋で、どんな物にも影響を受けません。

アートマーが、質[グナ]を持ち、その質が思考と混じるなら混合物になりますが、願望が、アートマーという質に染まり、混じり合うことなどありません。

質のないアートマーが、考えに存在と意識を与えていますから、欲求から自由です。

体、考え、感覚器官そのものも欲求はありませんが、欲求はこれら全てを巻き込みます。

全ての欲求は、感覚の対象物に関してで、感覚器官なしに、対象物は知られず、願望の対象とはなりませんから、感覚器官は、考えに願望が起こるための基盤[アディシュターナ]です。

願望は、感覚器官によって満たされ得ます。

考え[マナス]は、カーマの始まりである空想を作るものです(ex.ハワイに行ったらのんびり出来るかも)。

そして欲求を満たすための決定は知性[ブッディ]に起こります(ex.よし、ハワイに行こう!!)。

ですからマナス、ブッディも願望のアディシュターナです。

カーマが強力である時、人の智慧[ニャーナ]を奪い去り、人を困惑させます。

得てきた智慧は、願望によって、まるで目隠しをされているかのように乗っ取られてしまうのです。

◎妄想を取り除く

願望に関する妄想に対しできる事は、カーマが働く場所(考え、感覚器官)に注意深くあるよう、感覚器官を弱め、止めるよう練習します。

「もう少し食べたい」という願望が起こる時は、「もう十分」と言うことが出来ます。

プラクルティによって、考えや、欲求がポップアップし、好き嫌いは起こりますが、自分自身と好き嫌いの間にある距離を保てますし、それらに自分自身を明け渡す必要はありません。

カーマについて2つの鍛錬、ダマとシャマがあります。

考えのポップアップを、どうこうする必要はありませんが、その願望には従わないことが出来ます。

空想と願望の犠牲にならないよう、常に自分自身を探究し、何が適切かを見るなら、願望を満たす物は、あったらいいかもしれませんが、必要でないかも知れません。

どの程度役に立つのか、優先順位をよく考えるなら、願望に添って進むことも、進まない事もできる、この慎重な熟考がシャマです。

願望に添って進み、欲求することがわかるなら「それ以上は無い」と言う、これがダマが必要な場面で、日々、ご飯をお代わりしたい時に練習できます。

シャマとダマを練習すれば、欲求をうまくやり繰りすることができ、それが出来ないなら、人生を混乱さます。

願望に沿って進んでも、自分自身の決定を願望にさせませんように。

そして、願望の向け先を大事なものに向けれますように。

願望をうまく扱うために、注意深くいることを、次の詩でクリシュナが扱います。