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ギーターヨーガ

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【ギーター】第3章04番目の詩⑥

2021/02/01

न कर्मणामनारम्भान्नैष्कर्म्यं पुरुषोऽश्नुते ।

na karmaṇām anārambhāt naiṣkarmyam puruṣaḥ aśnute|

न च सन्न्यसनादेव सिद्धिं समधिगच्छति ॥३.४॥

na ca sannyasanāt eva siddhiṃ samadhigacchati ||3.4||

行いをしないことで行いの無いこと[ナイシュカルミャ]を得るのではありません。

単に、サンニャーサから成功(自由)を達成するのでもありません[3−4]

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行いが無いことがモークシャなら、長時間行いが無い状態でいたらいいのでは?

と考える人がいるかもしれませんが、それがモークシャであるなら、考えと考えの間に行いは全く無く、次の考えが現われる前にモークシャを得ていることになります。

とっくにモークシャを得たことになってしまいます。

そして、もう1つ言っておくべきことは、”行いをしないことは不可能”ということ。

クリシュナは、次の詩でこれを述べます。

長い間、行いをしない状態でいることも行いです。

座っていることも行い、横になることも行いです。

この様に、行いをしないことで、行いの無いことを得ることは出来ません。

更には、行いを始めなければ、行いの無い状態を得ると考える人がいるかもしれません。

行いをしている状態と、しない状態の間の平静な状態が行いが無いことで、その平静な状態が保たれるなら、モークシャは妨げらないと思う人がいます。

しかし、再び行いを始めるなら、モークシャがかき乱されてしまう、と言うのです。

そもそも、モークシャとは自由ですから、かき乱されることも、妨げられることもありません。

空間から現れた風が、空間を吹き飛ばしたり出来ない様に、風(空気)が、そこから現れた火に燃やされたりしない様に、自由であるモークシャは、何の影響も受けません。

行いをし始めないことで、ナイシュカルミャは得られません。

また、ヴェーダで規定されている(前半のヴェーダ)全ての責任や義務を免除されるカルマサンニャーシーの誓いをたて、サンニャーサ(モークシャ)になり得ると言う人がいるかもしれません。

知識の追求の為にサンニャーサを選び、全ての行いを手放すことが出来ると、ヴェーダ自体に書かれていますが、単にサンニャーシーになったからと言って、その人がナイシュカルミャを得たということにはなりません。

そのためには、自己の知識が必要です。

カルマ・ヨーガも、モークシャを得る為の(間接的な)手段です。

カルマ・ヨーガである程度の思慮深さを得て、多かれ少なかれ人生が適切に足りたものとなり、自分自身に満たされ、自分自身と座ることができます。

そして、その人はサンニャーサのライフタイルに入ることができます。

行いをしないことがナイシュカルミャではありません。

サンニャーシーのではないのに、課されている行い[カルマ]をしないのならば、これは義務怠慢です。

サンニャーサのライフスタイルを選び、カルマを手放すなら

・傷付けない

・競争しない

・関わらない

・与えられた食事と住む場所で暮らす

これらのサンニャーサの誓いをたてた事で、全ての行いから自由になると考えるかもしれませんが、それは違います。

知識を得なければなりません。