2021-03-13

【ギーター】第3章7番目の詩②

2021/03/08

यस्त्विन्द्रियाणि मनसा नियम्यारभतेऽर्जुन ।

कर्मेन्द्रियैः कर्मयोगमसक्तः स विशिष्यते ॥३.७॥

yastvindriyāṇi manasā niyamyārabhate:’rjuna |

karmendriyaiḥ karmayogamasaktaḥ sa viśiṣyate ||3.7||

アルジュナよ。一方、考え(識別)によって

感覚器官を制御しながら、
執着を手放し、行動器官を使い

カルマ・ヨーガを選択する人は、ずっと優れている[7]



ダルマに従った行いも、カルマは

ラーガとドヴェーシャのみを満たす為であり

安心と、喜びを得ることを目的としています。

その様なカルマはカーミャ・カルマと呼ばれ

カルマをする人[カルミー]

行いの結果にとらわれている人[カルマタ]

と言います。



執着しない人[アサクタ]は、知識の為

考えを整える目的でカルマを行う人です。

その様な人にとって祈りや、ヴァイディカ・カルマは

祈りの喜びの為、考えをきれいにする

[アンタハ・カラナ・シュッディ]為のものです。

モークシャの為のアンタハ・カラナ・シュッディも

カーミャ・カルマの範疇ですが

ラーガ・ドヴェーシャから為されるのでは無いことは

理解されるべきことで、それ以外は

喜びを楽しむための手段[ボーガ・サーダナ]です。

あなたが、楽しんでいる様に思えますが

その対象物が、あなたを味わい楽しみます。

子供時代は、体は成長し、背も高く強くなり

食べることで育ちましたが

大人になると、以前は、食べて大きくなっていたのに

今や、食べても衰えています。

対象物が、あなたの肝臓や、腎臓

全てを奪い去ってしまうのです。

今や、誰が食べているのでしょうか?

あなたは食べ物を食べているのではなく

食べ物にあなたが食べられています。

ヴァイディカ・カルマをする人は

自分が楽しむ人であると考えますし

行いの結果に執着する人[パラ・アーサクタ]と言われます。

これは、ラウキカ・カルマでも同じように当てはまりますが

カルマ・ヨーギーには、ラウキカ・カルマはありません。

ヨーギーにとって、全ての行いは

ただ神[イーシュワラ]に祈ることだからです。

この事実を理解するなら

あなたはイーシュワラに調和し

行いは何であれ祈りとなります。

ラウキカ、ヴァイディカなどなく

これらの言葉は、儀式的な行い、儀式的でない行いを

区別する為に使われているだけです。



ダルマすなわち、イーシュワラに沿った行いは祈りで

ラーガ・ドヴェーシャからなされたものではありません。

「行いの結果に執着しないでいること」という表現は

様々な混乱の原因になります。

それは、結果を期待せずに

誰も行いをしないからです。

執着のない人[ア・サクタ]という言葉は

ヴァイディカ、ラウキカどちらも

ラーガ・ドヴェーシャに基づいていない

という意味の専門用語です。

あなたからいつも離れている、望ましいもの[ラーガ]

あなたが避けたい、取り除きたいと望むもの[ドヴェーシャ]

ラーガ・ドヴェーシャに左右されない行いは

ダルマに沿ってされた行いで

アンタハ・カラナ・シュッディの為です。



この詩のアサクタは、何らかの制御を

味わい楽しんでいる人のことを指します。

そうでないと、ラーガ・ドヴェーシャが

すべきことを決めてしまいます。

空想にすぐ巻き込まれ

頭に浮かんだことをしてしまいます。

ダルマ・アダルマ基準ではなく

都合の良さ基準です。

一方、カルマ・ヨーギーはある程度

行動器官、感覚器官を制御できます。

ここで、「ある程度」という言葉を使うのは

カルマ・ヨーギーもまだ

自己に関して無知である人[アッ・ニャ]だからです。

この人は、こうしてしまった、こうしなかった、

こうされた、こうしてもらえなかったという思い

[オミッション・コミッション]があるかもしれませんが

いつもある程度、制御があります。

アンタハ・カラナ・シュッディと

モークシャだけに興味があるので

カルマ・ヨーギーはすべきことをします。

考えをきれいにすることは

厳密に言えば、行いの結果得られるものですが

ラーガ・ドヴェーシャに基づくものではなく

一般的な意味でのカルマ・パラとして

述べられたものではありません。



モークシャを得たいとは

アートマーを、イーシュワラを知りたいということです。

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