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ギーターヨーガ

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【ギーター】第3章08番目の詩①

2021/03/22

नियतं कुरु कर्म त्वं कर्म ज्यायो ह्यकर्मणः ।

शरीरयात्रापि च ते न प्रसिद्ध्येदकर्मणः ॥३.८॥

niyataṃ kuru karma tvaṃ karma jyāyaḥ hi akarmaṇaḥ |

śarīra-yātrā api ca te na prasiddhyet akarmaṇaḥ ||3.8||

なすべきことをしなさい。行いは何もしないより優れています。

何もしなければ、自分の体を維持することさえ、出来ないでしょう。[8]

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シャーストラで規定されたもの、ダルマの秩序によるものをニヤタと言い、適切なカルマはニヤタム・カルマと言います。

何も行動しないより行動する方が優れてますから、クリシュナはアルジュナに行いをしなさい、と言いました。

自分自身[アートマー]を知らず、カルマを行うこともしないのであれば、何も達成されることは無く、肉体、考え[アンタハ・カラナ]は病んでいきます。

カルマをすることは、カルマをしないことより明らかにより優れています。

行いをしなければ、生きるという旅は無い、とクリシュナは言いました。

肉体の旅[シャリーラ・ヤートラー]は、生まれてから、ずっと続きます。

単に人生を生き、ただ生き残っても何も達成しません。

あらゆる生き物は、生存本能を持ち、プラーラブダカルマを消化するまで生き残りますが、生存が人の達成するべき事ではなく、人の人生とは、何かを達成する為のものなのです。

ですから、4つの側面を持つ人の目的[プルシャ・アルタ]、安全[アルタ]、喜び[カーマ]、正義[ダルマ]、あらゆるものからの自由[モークシャ]。

この4つがシャーストラで述べられているのです。

達成すべきゴールを叶えようと突き動かす、様々な望みを私たちは持っているのです。

食べる為に手を使わない、偉大なサンニャーシーと言われるスワミがいます。

そのスワミは、口を開け、他の人に食べ物を入れてもらいます。

しかし、明らかに口を開けることは行いで、口を閉じるということも、噛むこと、飲み込むこと、次の一口の準備をすることも行いだと彼は理解していません。

このスワミは、喋らず、何もしないので、人はそれをナイシュカルミャと言いますが、そうではありません。

生きる為に、人は少なくとも食べることが必要です。

行いをしなければ、食べることでさえ出来ません。

食べる為に手を使わないのであれば、誰かに食べ物を口に入れてもらわなければなりません。

料理をしてもらい、口に入れてもらわなければなりません。

それは行いです。

必要な材料を買う為、お金を稼ぐことも行いです。

行いをせず生き続けるのは不可能ですから、すべきことをするのです。

第1章でアルジュナは、身内を破壊することで大きな罪を犯すと言いましたから、クリシュナは行いをすることを恐れるな、とアルジュナに言います。

カルマがプンニャとパーパを作り出し、それによって再び生まれ変わる。

そしてまたカルマをし、それがプンニャとパーパを作り、また再び生まれる。

カルマが、サムサーラの人生における元凶であると言われるのです。

カルマこそが束縛の原因で、カルマをすべきではない、という結論に至ってしまうのです。