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ギーターヨーガ

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【ギーター】第3章09番目の詩

यज्ञार्थात्कर्मणोऽन्यत्र लोकोऽयं कर्मबन्धनः ।

तदर्थं कर्म कौन्तेय मुक्तसङ्गः समाचर ॥३.९॥

yajñārthātkarmaṇo'nyatra loko'yaṃ karmabandhanaḥ |

tadarthaṃ karma kaunteya muktasaṅgaḥ samācara ||3.9||

ヤッニャの目的の行いから外れて(イーシュワラに捧げる行いから外れて)、その人は、カルマによって束縛されます。おお、カウンテーヤ(クンティの息子)よ。それゆえ、執着から離れて、その目的で、(ヤッニャの目的で)行いをしなさい。

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ヴェーダにおける「ヤッニャ」とは、単なる儀式上の供犠にとどまらず、イーシュワラに捧げられる人生のあらゆる行為を包括する重要な概念です。

通常、儀式には捧げる人、捧げもの、受け取る神、そして祭壇という要素が必要ですが、広義のヤッニャにおいては日常の営みそのものが当てはまります。

例えば、食事もまた、肉体という祭壇に宿る「消化の火」やプラーナという名の神へ供物を捧げる神聖な儀式と見なされます。

創造されたものの全ては神に属していて、捧げる主体も、対象も、行いそのものもすべてが神の現れであるという認識を持つことで、日常の行いは、感謝と敬意に満ちた祈りへと変容します。

それは、見返りを期待する世俗的な贈り物の交換を超えた、万物との調和を深める行いです。

どの様な捧げものも神だけに属する

世俗的な贈り物の交換には相互の期待が伴いますが、ヤッニャの本質は、所有権を放棄し、すべてを神に委ねることにあります。

この認識に立つと、創造された世界のあらゆる側面はイーシュワラの現れであり、それぞれを司るデーヴァターを見出すことができます。

例えば、呼吸のプロセス(プラーナとアパーナの循環)や、身体の鍛錬、ヨガのポーズ、さらには音楽の旋律(ラーガ)に至るまで、それらは単なる活動や技法ではなく、神聖なヤッニャとして捉えられます。

感覚器官の働きさえも、それを統括する神の機能であると理解することで、日常のすべての営みが全体としての神への祈りとなるのです。

感覚器官はイーシュワラ

イーシュワラを、あらゆる創造物の材料の源として、見るならば、目そのものはイーシュワラです。

知的な源として、神を捉えるならば、目を統括する神になります。

このイーシュワラの理解、つまりこのバクティがなければ、カルマ・ヨーガはありません。

モークシャへの道は「ニャーナ・ヨーガ」と「カルマ・ヨーガ」の2つですが、どちらもイーシュワラへの深い理解と献身に基づいています。

「バクティ・ヨーガ」を第3の独立した道と捉えがちですが、神への愛を表現するために歌い[vācikam karma]、踊る[kāyikam karma]ことは、カルマそのものです。

つまり、バクティは独立したモークシャへの道ではなく、あらゆる行いや知識の追求の根底にあるべき態度です。

知識に専念するサンニャーシーも、適切な態度で行為を捧げるカルマ・ヨーギーも、共にイーシュワラという真実に献身する帰依者[bhakta]であることに変わりはありません。

バクティ・ヨーガはカルマ・ヨーガ

バクティとは単なる感情ではなく、あらゆる活いの中にイーシュワラを見出す「認識」そのものです。

この認識があれば、瞑想、祈り、プラーナーヤーマ、さらには身体の調整や子育てさえも、すべてがヤッニャとなり、カルマ・ヨーガとなります。

「子供は神からの恩寵[prasāda]である」という理解は、神を行いの結果を与える人[karma-phala-dātā]として受け入れています。

また、ハタ・ヨーガは、モークシャに至るための「間接的な手段」で、主な役割は、アンタッカラナを浄化し、身体を整え、統合することにあります。

教えの体系として、モークシャへの道は「ニャーナ・ヨーガ」と「カルマ・ヨーガ」の2つに集約されます。

バクティはこれら両者に共通する要素で、独立した第3の道ではありません。

サンニャーシーは、他者と競ったり優劣を証明したりする必要のない生き方を選んだ人です。

もしサンニャーシーが自ら事業を興し、他社と製品の質を競うような状況にあるならば、それは社会の義務や執着に縛られていますから、サンニャーシーではありません。

社会的な義務から解放され競争を離れたサンニャーシーも、適切な態度で行為に励むカルマ・ヨーギーも、万物の中にイーシュワラの秩序を認識するという点において、共に等しくバクタです。

この秩序を壁や岩と同じほど明白なものとして理解する姿勢こそが、バクティであり、あらゆる行いをモークシャへのサーダナへと変容させます。

バクティの本当の意味

バクティは、単にチャンティングすることではなく、万物の背後にあるイーシュワラとその完璧な「秩序」を理解することにあります。

この世界には、無秩序や偶然は存在せず、アインシュタインが述べたように、神がサイコロを振ることはありません。

私たちが「今、この場所」に存在し、特定の状況に置かれていることにはすべて意味があり、それはカルマの法則という精密な秩序の現れです。

あらゆる状況そのものをイーシュワラからの呼びかけとして受け入れ、期待される役割を果たすことがカルマヨーガです。

考えに湧き上がる欲望さえもイーシュワラです。

欲望そのものを「悪」として否定するのではなく、この考え(欲望)さえも、イーシュワラが司る大きな心理的秩序の結果として今ここに現れているのです。

イーシュワラのシナリオである完璧な秩序(知性)の中で、私はその一部として動かされているという認識が「祈り」となります。

ヤッニャには、直接的な儀式としての側面と、日常の義務を通じた間接的な側面がありますが、いずれもイーシュワラと関わりを認識することが、人生を意味深いものにします。

直接と間接のヤッニャ

ヤッニャには、神への直接的な祈りと、イーシュワラの理解を持ってなされる日常のあらゆる行為(間接的な祈り)の2つの側面があり、その本質は「万物の秩序」とのハーモニーにあります。

デーヴァターは、単に擬人化された神々ではなく、宇宙のあらゆる要素や機能を司る「知的な力(法則)」です。

この世界には、目に見える自然環境だけでなく、思考や行為、身体機能に至るまで、多層的な「生態系(エコロジー)」が存在しています。

それぞれのデーヴァターは、この精巧な生態系の中で、目を司る、消化を司る、維持するなどの、それぞれの分野での役割を担っており、互いに調和を保ちながら宇宙を回しています。

人間には自由意志が与えられていますが、もし自己中心的な欲望によってこの秩序を乱せば、それは特定のデーヴァターが司る働きを妨げることになります。

水面に石を投げた時の波紋が、全体へ広がるように、私たちの小さな行いもデーヴァター達のネットワークを通じて宇宙全体のバランスに影響を及ぼします。

ですから、直接的にデーヴァターへ祈りを捧げる儀式(直接的ヤッニャ)や、日常の行為を宇宙の秩序への調和として捧げる生き方(間接的ヤッニャ)は、この広大な生態系に対する敬意と責任の表現です。

デーヴァターとの相互作用を正しく理解し、自由意志を宇宙の秩序[dharma]に沿って用いることこそが、カルマ・ヨーガです。

秩序を妨げる

宇宙は精緻な生態学的秩序の中にあり、自由意志を持つ人間がダルマに反する行いをすれば、その乱れはアダルマとして全体に波及し、対立や問題を引き起こします。

カルマ・ヨーギーは、単なる信仰心を超え、自分のあらゆる行いが宇宙全体の調和に影響を及ぼすという「気づき」を持つ人です。

カルマには、即座に現れる「目に見える結果[dṛṣṭa]」と、すぐには現れず将来や来世に影響を及ぼす「目に見えない結果[a-dṛṣṭa]」の二つの側面があります。

例えば、お湯を沸かすような物理的な行為の結果は目に見えますが、祈りや儀式がもたらす結果は、因果関係がすぐには見えません。

この目に見えない秩序までをイーシュワラの法則として理解し、繊細な感性を持って役割を果たすことが、バクティの本質でありカルマ・ヨーガなのです。

行いがどの様に人を束縛するか

カルマは、それがプンニャであれ、パーパであれ、本質的に人をサムサーラのサイクルに繋ぎ止める足かせとなります。

プンニャの結果、例え高い地位や名声を得たとしても、それは「限られた存在である」という根本的な感覚を解消するものではありません。

識別を持つ人にとって、プンニャは「金の足かせ」、パーパは「鉄の足かせ」であり、どちらも自由を妨げるものであることに変わりはありません。

しかし、もし行いが、利己的な欲望のためではなくヤッニャとしてなされるならば、それは束縛の原因[bandha-hetu]ではなくなります。

通常、ヤッニャと聞くと、お供え物を火の中に投げ入れるといった「特定の行為」を想像しますが、ここでの教えはその枠組みを大きく広げます。

シュルティは「ヤッニャはヴィシュヌである」と言います。

これは、儀式という行為が単に神に届くための手段なのではなく、「儀式という現象そのものが神の現れ」という意味です。

ギーター4章24節の有名なシュローカでは、儀式の構成要素すべてがブランマンだと述べられます。

捧げる人も、捧げる行為も、捧げものも、火や祭壇も、使うスプーンなどの道具も、得られる結果も全てが神です。

もし、自分が神と離れた別の存在だと思っていれば、何かを得ることで自分を補おうとします。

しかし、捧げる自分も、捧げる物も、結果もすべてが同じブランマンであるという理解が「自分以外のどこかから何かを得る」という概念そのものが消え去ります。

すべてが既にブランマンの中にあり、ブランマンそのものだからです。

イーシュワラに捧げる行いは束縛しない

カルマそのものが人を縛るのではなく、その背後にあるラーガ・ドヴェーシャという執着こそが人を束縛する原因です。

自分の欲望を満たすためだけの行い[kāmya-karma]は、どれほど正しい手順を踏んでも、プンニャやパーパという結果を生み出し、人をサムサーラに繋ぎ止めます。

しかし、同じカルマであっても、それをイーシュワラへの捧げもの[yajña]とし、アンタッカラナ・シュッディという目的で行うならば、それはモークシャへの準備を整える「ヨーガ」へと変容します。

クリシュナがアルジュナに話したことは、戦いたくない、王国はいらない等の私的感情を、ダルマに従わせるという生き方です。

過去のカルマ[prārabdha]がもたらした現在の状況において、結果をプラサーダとして受け入れ、ラーガ・ドヴェーシャではなく、自身の義務を全うする。

この「執着からの自由」こそが、カルマをヨーガにします。

どのような行いがヨーガになるのか

行いは、「これをすれば何が得られるか」という功利主義的な損得勘定に支配されています。

しかし、カルマ・ヨーガにおいては、自分の好き嫌いや利益の有無を超えて、「今、なされるべき義務」を優先します。

たとえ気が進まないことであっても、それがダルマに沿った正しい行いであれば、真摯に取り組む。

この態度の変容こそが、行いをヨーガへと変えるのです。

既に「私は行い手ではない」という真実を悟った賢者にとっては、行いが束縛になったりしません。

しかし、未だ「自分がしている」という観念を持つ段階にある人は、アンタッカラナシュッディと知識のために、適切な態度で行いをします。

クリシュナ神は、なぜ私たちがこの世界で役割を果たし続けなければならないのか、その理由についてさらなる説明を続けていきます。