इष्टान् भोगान् हि वो देवा दास्यन्ते यज्ञभाविताः ।
तैर्दत्तानप्रदायैभ्यो यो भुङ्क्ते स्तेन एव सः ॥३.१२॥
devān bhāvayatānena te devā bhāvayantu vaḥ ।
parasparaṃ bhāvayantaḥ śreyaḥ paramavāpsyatha ॥3.11॥
ヤッニャに喜ばされた神々は、あなたに望みの物を与えてくれるでしょう。ですから、
彼らに奉げることなく、彼らに与えられたものを楽しむ人は、まさに泥棒なのです。[12]
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ここで神々は、祈りや儀式[ヤッニャ]で祈られる神々の姿をしたイーシュワラのことです。
神々は、全ての望ましい体験を繰り広げ、望ましい物を与えてくれます。
ヤッニャにコミットする人には、成長を助ける状況があります。
人がダルマの人生を生きる為に、ダルマが最も優先される社会が必要です。
社会にある程度のダルマがある場所でだけ、その様な生き方がしやすいのです。
デーヴァターを祈ることは、ダルマに従うということ、それは祈り深い生き方をし、助けとなる環境を作り出すのです。
多くの人が、この様な生き方をするなら、社会全体がダルマの成長に貢献します。
ダルマに反するなら、秩序が乱れ、私達は苦みますから、全ての人が、自分の役目を果たすべきです。
デーヴァターは、彼らの仕事をし、人はヴェーダで与えられた秩序[ダルマ]に基づき仕事をします。
動物や木、他の植物は、全てプログラムなのでヴェーダを必要としませが、人は秩序に従うためにヴェーダが必要です。
人が秩序を乱さなければ、デーヴァター達は妨げられることはありません。
宇宙の秩序のエコロジーは、宇宙の力のレベル、デーヴァターのレベルにおいて、妨げがないことを意味します。
太陽、水、火、風、土が各自の仕事をする時、イーシュワラの側面に他ならない宇宙の力から絶え間なく受け取っていますからから、私達もお返しに何かを捧げます。
イーシュワラを認識し、お供え物や祈りを捧げる、本当の意味での感謝祭はいつも続きます。
これら全ての力を認識する、その祈りが感受性の豊かさを育てます。
単に五感を満たすのではなく、そこに現れている生きた法則を見るなら、それは意味深い生き方です。
神々を認識するという形で、お返しをしない人は、泥棒だとクリシュナは言います。
デーヴァターは理解、理解なく、デーヴァターは全く存在しませんが、それでも彼らは常に働きます。
呼吸する、その息はイーシュワラです。
デーヴァターの仕事は、常に為され、私によって認識され得るのです。
デーヴァターに返すものが、認識で、それがヤッニャです。
お返し、感謝としてヤッニャを行い、ヤッニャ自体がアンタハ・カラナ・シュッディをもたらし、それで人は、感謝を捧げることができます。
感謝を捧げ、全てをイーシュワラとして認識することで、確実にアンタハ・カラナ・シュッディを得ます。
その人は、ラーガ・ドヴェーシャに従わず、ラーガ・ドヴェーシャを超えて行きます。
一方、考えや感覚器官だけを満足させるために行いをする人は、水や小枝でさえも捧げませんから、そのような人は泥棒です。
その人は宇宙の力を適切に評価しないのです。