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ギーターヨーガ

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【ギーター】第3章15番目の詩


कर्म ब्रह्मोद्भवं विद्धि ब्रह्माक्षरसमुद्भवम् ।

तस्मात् सर्वगतं ब्रह्म नित्यं यज्ञे प्रतिष्ठितम् ॥३.१५॥

karma brahmodbhavaṃ viddhi brahmākṣarasamudbhavam |

tasmāt sarvagataṃ brahma nityaṃ yajñe pratiṣṭhitam ||3.15||

儀式や祈り(カルマ)などは、ヴェーダから生まれたものであり、ヴェーダは、滅びることのないイーシュワラから生まれたものであることを、あなたが理解しますように。ですから、全てに満ちているブランマ(ヴェーダ)は、いつもヤッニャの中に宿っています。
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ここでの「カルマ」とは、単なる日常の行いではなく、ヴェーダに定められた神聖な儀式[vaidika-karma]を指します。

このカルマの拠り所となるのが、詩の中で「ブランマ」と呼ばれているヴェーダです。

ブランマンは、3つの側面(破壊・創造・維持)の創造主[brahmājī]の名前でもありますが、ここではカルマの原因としてのヴェーダを意味します。

この詩での「ブランマ」は、宇宙の究極の真理[brahman]そのものではなく、そこから「呼吸のように自然に」現れたヴェーダを意味します。

ブランマは、滅びることのないもの[akṣara]から生まれた、とされていますから、この詩ではヴェーダのことを述べています。

ヴェーダは、人間が人生で追求する4つの目的[puruṣa-artha]のすべてを明らかにする知識体であるため、全知[sarvajña]とみなされます。

知識は作られるのではなく発見されるもの 

 知識は無から新しく生み出されるものではありません。

事実は常にそこに「ある」ものであり、知識とはその事実を正しく理解すること(発見)にすぎません。

「1+1=2」を知る時、それは知識が作られるのではなく、ただ知られていなかっただけのように。

もし知識が作られるものなら、それは無知を基盤にすることになり、矛盾が生じます。

事実は常に存在するため、その知識も常に存在しています。

すべての事実と一致している全知こそがイーシュワラです。

イーシュワラもジーヴァも「意識的な存在」です。

ここで重要な問いが立てられます。

「意識」は単なる存在の属性(形容詞)なのか、それとも、存在そのものが「意識」なのかという点です。

もし意識以外の「存在」があるなら、それをどうやって認識できるのか?という問いです。

認識する主体(意識)がなければ、何かが「ある」と証明することすらできないからです。

なぜ、私は全知ではないのか? 

知識は新しく作られるものではなく、すでにある事実を覆っている「無知」をこすり落とすことで現れます。

体験の世界(科学など)の知識は、常に部分の積み重ねであり、終わりなき「こすり落とし」の連続ですが、アートマーに関する知識だけは、部分のない「全体」であるため、完全に無知を落としきることが可能です。

意見や信念、憶測は個人の知性の産物(作られたもの)ですが、真の知識は事実そのものなので生まれることも滅びることもありません。

個人の知性から生まれたものは、その知性の限界に縛られますが、ヴェーダは特定の作者を持たない「啓示された知識体」です。

ヴェーダは、人間の感覚や推論では届かない真実を明らかにする「言葉による知識の道具[śabdha-pramāṇa]」です。

天国のような目に見えない話題に関する知識は「間接的[parokṣa]」であり、それはまだ「信じている」段階にすぎません。

プラマーナであることの証明:それが働くなら、それが証明!

デーヴァターや儀式に関する知識は「間接的[parokṣa]」です。

ホメオパシーや祈祷のように、現代科学で証明されていなくても、「実際に結果が出る(働く)」という事実によってその有効性が実証されます。

イーシュワラにとっては、言葉の形式よりも「祈る人の意図」が重要であり、どのような形の祈りも意味を持ちます。

一方で、ヴェーダが「自分自身」について語るとき、それは憶測ではなく、すでに存在している「事実」の解明です。

自分自身に関する混乱が解けるとき、それは信じている段階(間接)を超えた「直の知識[aparokṣa-jñāna]」となります。

自分自身[ātmā]のリアリティを扱い、「自分こそが全体である」と明らかにする知識の体系がヴェーダーンタです。

ヴェーダの強み

「自分自身は全体である」という事実は、特定の文化や宗教の独占物ではありません。

この真実を宣言するものは、どのような言語・形式であれ、本質的に「ヴェーダーンタ」です。

 ヴェーダは特定の予言者や歴史的人物から生まれたものではなく、イーシュワラから現れました。

そのため、個人の知性が持つ限界や弱さを持ちません。

パラム・ブランマンは、すべてに行き渡っています。

そのブランマンから現れたヴェーダに基づきヤッニャを行うことは、「原因と結果のサイクル」に自分を調和させることそのものです。

ヤッニャを通じて、人はデーヴァターをなだめ、調和します。

それは自分自身が神から離れた別の存在ではないという事実に目覚めていくプロセスでもあります。

知識は、事実の理解にすぎません。

知識はいつもあるもの、全てはただ「あるがまま」、未来も「あがまま」です。

可能性としての未来が「ある」、この「あるがまま」を私たちは知識と呼びます。