千葉県立 青葉の森公園近くの小さなヨガ教室

ギーターヨーガ

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【ギーター】第3章17番目の詩


यस्त्वात्मरतिरेव स्यादात्मतृप्तश्च मानवः ।

आत्मन्येव च सन्तुष्टस्तस्य कार्यं न विद्यते ॥३.१७॥

yastvātmaratireva syādātmatṛptaśca mānavaḥ |

ātmanyeva ca santuṣṭastasya kāryaṃ na vidyate ||3.17||

しかしながら、自分自身の中に喜びがある人、自分自身に満足していて、自分自身の中に満たされているであろう人は、その人にとって成すべき事というのがありません。

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カルマは宇宙の循環を維持するために必要ですが、モークシャを直接もたらすものではありません。

カルマ・ヨーガの真の目的は、アンタッ・カラナ・シュッディにあります。

モークシャのための唯一の直接的な手段は知識です。

知識は「私は行い手である」という無知を破壊します。

「行いをして満たされよう」という観念が無いとき、その人は自由です。

自分を行い手だと思っている人だけが、世界からの反応に一喜一憂します。

知識によって「行い手ではない自分自身[sāṅkhya]」を見出した人[sannyāsī]には、もはや束縛はありません。

●三種類の人間(ボーギー、ヨーギー、ローギー):

1.ボーギー(体験者)[bhogī]: 「お金があれば」「あの人がこうしてくれれば」と世界を操作しても、状況が変われば幸せは消えます。

2.ヨーギー(修練者)[yogī]: 「瞑想して心を静めれば」と自分の考えを操作しても、瞑想が終われば心はまた動き出します。

3.ローギー(病人)[rogī]: 世界も考えも操作できず、苦しみの中にいる。

自己の真実についての智慧が揺るぎなく確立された人[sthitaprajña]は、コントロールを必要とせず、自分自身の中にすでにある幸せに満たされている人。

「なること」が問題

ボーギーもヨーギーも、今の自分を不完全だと見なし、何か別の状態に「なろう」としています。

しかし、「なる」という行為は、常に次の「なる」を必要とするため、根本的な解決(満足)には至りません。

これに対し、聖者はアートマーの中に喜びを見出しています[ātmaratiḥ]。

この喜びは、外側の物や状況、あるいは内側の特定の思考状態に依存しない「無条件の幸せ」です。

ここでのヨーギーは「落ち着かない考え」を材料に、操作によって静寂を作り出しますが、ニャーニーは、考えが動いていても静まっていても、自分自身の本質が「満足[pūrṇa]」であるという知識に根ざしています。

 私たちは通常「何かが手に入って満足」しますが、この聖者は「自分自身であること」だけで完全に満足[ātmatṛptaḥ]しています。

幸せは自分自身とだけある

ニャーニーは自分を「行い手」と見ていないため、ヴェーダの命令(~しなさい)の対象外です。

あたり一面が水で満たされているとき、わざわざ小さな井戸の水を求める必要はありません。

洪水の中に沈んだ井戸のように、個別の儀式の必要性が全体的な知識に飲み込まれてしまいます。[ātmani eva santuṣṭaḥ]

聖者にとってヴェーダの個別的な命令は、この井戸のようなものになります。

ヴェーダが「行いをせよ」と命じるのは、自分を行い手だと思い込んでいる人[a-jñānī]に対してだけです。

名前を呼ばれた人だけが返事をするように、行い手観念がある人だけがその命令に反応し、束縛されます。

カルマ・ヨーガ自体は、知識を直接生むものではありませんが、知識が起こる場所である「考え[antaḥ-karaṇa]」を整えるために不可欠なのです。

単に形式的に仕事を辞めてサンニャーサの儀式をしても、知識がなければ真の「行いの無いこと[naiṣkarmya]」には至りません。