यस्त्वात्मरतिरेव स्यादात्मतृप्तश्च मानवः ।
आत्मन्येव च सन्तुष्टस्तस्य कार्यं न विद्यते ॥३.१७॥
yastvātmaratireva syādātmatṛptaśca mānavaḥ |
ātmanyeva ca santuṣṭastasya kāryaṃ na vidyate ||3.17||
しかしながら自分自身の中に喜びがある人、自分自身に満足し、自分自身の中に満たされている人
その人にとって成すべき事というのがありません[17]
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体の姿勢[アーサナ]や、呼吸の統制[プラーナーヤーマ]は、内側の探求者[ヨーギー]に一時的な喜びを体験させ、体験者[ボーギー]は楽しみのために世界を操作し、病気の人[ローギー]は、それらを楽しむことができません。
これらの3人は「何かにならなければいけない」とアートマーを考えます。
どんな「なる」も、いつも更なる「なる」を必要とするので「なる」ことはありません。
「なる」前も、「なる」間も、「なった」後も、また何かにならねばならず、問題は決して解決しません。
この不完全なものをアートマーと見なしている人は、サムサーリーです。
ところが、この詩のアートマ・ラティは、アートマーの中にいつも喜んでいる人で、どんな人も、物も、状況も必要としません。
不完全な自分自身というのはあり得ず、自分自身が幸せ、満足の本質です。
わたしが、満足の本質[プールナ・スヴァルーパ]と理解するなら、その人は自分自身の知識にしっかりと根付いた人[アートマ・ジニャーナ・ニシュタ]です。
自分自身でいて幸せ、満足であるという知識[アートマー・ニャーナ]がありますように。
ボーギーは外側の物や状況に喜び、ヨーギーは考えという物に関して喜び、落ち着かない考えを扱う為にヨーガを練習しますが、考えが落ち着いているならヨーガは必要ではありません。
夢から目覚めるなら、夢の中の世界は、私の記憶と認識する様に、アートマラティであるために、アートマーに目覚めるのです。
自分自身の知識にしっかりと根付いている人[アートマー・ニャー ナ・ニシュタ]を、アートマ・トゥルプタとクリシュナは描写します。
満足が自分自身である人、その人自身が満足なので、それ以上の何も必要とはしません。